ディーラーとして再出発 ヤナセの苦闘と原点回帰
国内に競争相手がいなかったのだから、儲からないわけがない。こうした黄金時代を築いたのが「輸入車業界のドン」とも称された故・梁瀬次郎氏。梁瀬氏は01年に日本自動車殿堂入り、04年に日本人として5番目となるアメリカ自動車殿堂入りを果たしている。
風向きが変わってきたのは1981年、独BMWが日本法人を設立し、日本市場での販売テコ入れを図ったことだった。これが大成功を収めたことで、ほかの海外車メーカーも次々と日本法人を設立。ヤナセに独占輸入契約の打ち切りを迫った。
とりわけ大きな打撃となったのは、二つのドル箱、ベンツとVWの輸入契約の打ち切りだ。どちらも50年代から一貫して輸入を手掛けてきたが、86年にはベンツ、92年にはVWの輸入権を、それぞれ両社の日本法人に移管することになる。
失ったドル箱の売り上げを補うため、93年にGMの欧州ブランドであるオペルや仏ルノーの輸入権を獲得し、販売に乗り出した。しかしそのオペル車で品質問題が多発、かえって裏目に出てしまう。梁瀬氏も「VWの販売を打ち切ったことは最大の失敗だった」と漏らしたといわれる。
ビジネスモデルの中核だった輸入権を失ったことで、今度は整備センターの減価償却や無謀な出店で約1800億円にまで膨らんだ有利子負債が重い負担となってのしかかった。当然、業績は急下降。90年代後半、ヤナセはいつ破綻してもおかしくないと業界でささやかれたほどだ。