福島で進む「被災者のリタイア」に見た根深い危機 原発事故と向き合ってきた現場に世代交代の波
「夏にやめたんだ」
震災から11年の節目を前にそう語ったのは、福島県の漁師だった。「身体を悪くした」のと「もう70(歳)だっぺぇ」というのが理由だった。
「船も金を払って処分してもらった」
所有していたのは底引き網漁船だった。その船に私も2回乗せてもらったことがある。1回目は震災の年の10月。2回目は震災から5年の区切りの3月。いずれも漁ができない中でのサンプリングや試験操業だったが、沖合からは肉眼ではっきりと福島第二原発を見ることができた。天気がよければ第一も見える位置だった。
それだけに「処分」と聞いて、奇妙な感傷を覚えた。いや、それ以上に震災の以前の海を取り戻すことなく、幕を閉じた漁師人生に思いを馳せた。
船は大津波から生き残った盟友
処分した船は、11年前の大津波でも流されることなく、生き残った盟友だった。それも地震発生時には漁に出て網を引いていた。地面が揺れていることも、潮位の変化もまったく気付かなかった。携帯電話の速報と、家族からのメールで地震を知った。
それからは、「大津波が来る」と同じ漁港から沖に避難してきた船4隻といっしょに、雪の降る一晩を海の上で過ごした。
妻と娘たちは避難していて無事だった。自宅も床上浸水で損壊は免れた。それでも福島県で獲れる魚からは高濃度の汚染が確認された。それがしばらく続いた。
試験操業のたびに、甲板に網から解き放たれて広がる魚類の数と大きさから、豊漁であることは明らかだった。しかし、水揚げが認められた魚種もわずかで、あとは海に投げ捨てていた。福島産というだけでかつてのような値はつかない。そのまま10年以上が過ぎた。
「来年は、もっと騒ぎになっぺよ」
福島第一原発にいまも流れ込む地下水が、メルトスルーした燃料デブリを通って汚染水に変わる。処理したところでトリチウムだけが残る。それを溜め込むタンクも敷地いっぱいとなり、来年にはそのトリチウム水を海洋放出することが決まっている。そのことで地元は「騒ぎ」になるという。
「魚は安くなって、儲からない。震災の前にはどうしたって戻らなねぇ」
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