少し話題がずれるかもしれないが、たとえば<「ローマは1日にして成らず」という。しかし、ローマは雇う人種を間違ったね。日本人ならばすぐ建設できたよ>というジョークがあったとする(これは正確には「日本人」ではなく「メキシコ人」というジョークがある)。ただ、これは発言者が日本人であってもジョークとして述べるのであれば、現在ではギリギリ、そして近い将来は完全に許されないだろう。
日本とアメリカ、コメディアンの差
ところで、読者の皆さんの中にはNetflixのような海外の動画配信サービスに加入している方は少なからずいるだろう。Netflixのお笑いはスタンダップコメディが多い。スタンダップコメディとは、いわゆるコメディアンが1人でステージに上がり、そして独り語りで笑いを取るものだ。実際、私はジミー・カーなどのスタンダップコメディで爆笑した。
日本でのお笑いは漫才形式が大半だ。これはボケとツッコミにわかれている。説明するのも野暮だが、冗談を言う側と、それを静止する側に分かれ、そのツッコミによって会場には笑いが生まれる。
なぜ日本でボケとツッコミに分かれているかというと、それは日本人特有の同調圧力にあるものだと考えている。つまり、ツッコミ側が「笑っていいよ」と聴衆に笑いの許可を与えているように思うのだ。欧米などでは、聴衆が自分の判断で笑える。しかし、日本では場の雰囲気が必要だ。と思えば、ボケとツッコミが分かれているのは、日本人的にすぐれた笑いシステムではないか。
ただ、そんなことを考えていると、日本人でアメリカのスタンダップコメディアンとして活躍しているSaku Yanagawaさんは、さらに新たな観点を付け加えてくれた。彼は、欧米でツッコミによる笑いを作るのが受け入れられない理由は、聴衆へ笑いの価値観を強制しているからだという。この彗眼には驚いた。どこを笑うかどうかも、漂白化される社会においては強制されてはいけないのだ。
<これほどまでに「ダイバーシティ」と言われている中で、ツッコミという「観客全員と視点を同じにする人物」という構図が成り立ち得るのかということだ。本来ならば「視点は人それぞれでいい」と叫ばれているはずの今、ツッコミが正した内容を、別におかしく感じていない観客だっていてもいい。>(『Get Up Stand Up!たたかうために立ち上がれ!』Saku Yanagawa)
これはきわめて重要な指摘だと私は思う。
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