撃墜王リヒトホーフェンは何がスゴかったのか 第1次世界大戦と赤い男爵「レッドバロン」の栄光

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マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(右)とはどんな戦闘機乗りだったのか
「赤い男爵」ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン。ドイツの撃墜王の異名通り貴族出身の彼は、弟も著名な戦闘機乗りとして知られる。また、遠縁にあたるリヒトホーフェン姉妹の姉はマックスとアルフレートのヴェーバー兄弟と深い関係を持ち、妹は作家D・H・ロレンスと世界を遍歴した。マンフレートを中心としつつ、この4人を通し、20世紀という戦争と思想の時代を描いた『リヒトホーフェン――撃墜王とその一族』から一部を抜粋、再構成してお届けします。

機体を赤く塗る

「たいした理由があったのではないが、ある晴れた日に、わが愛機を派手な赤に塗ろうと思いついた。わたしの赤い飛行機が無条件にだれの印象にも残るようになったので、これは大成功だった。じっさいに、わが愛機は敵側の眼にも留まらずにはいなかったようだ」

ドイツの撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892~1918)の自伝は、赤い機体の由来をこのように記す。最初に赤く塗られた日は、1916年12月28日あるいは1917年1月20日とされている。これ以後、彼の飛行隊はすべての機体が赤く塗装されるようになる。

ここで問題となるのは機種だが、おそらくはこの時期のオズヴァルト・ベルケ(1891~1916)戦闘機中隊の主力である単座複葉機アルバトロスD.ⅡかD.Ⅲだと思われる。というのも、マンフレートが搭乗した機体でもっとも有名な三葉戦闘機フォッカーDr.Ⅰはいまだ開発されておらず、この機種が西部戦線に配備されるのは1917年8月だからである。

出撃前のアルバトロスD. V編隊

「レッド・バロン」(Red Baron)という彼の通称はイギリス軍側ではすぐに定着したようだが、ドイツで「ローター・バローン」(Roter Baron)という呼び方がなされるようになったのは、1945年のことである。第一次世界大戦中は「ローター・カンプフフリーガー」(Roter Kampfflieger)、すなわち「赤い飛行機乗り」という通称のほうが一般的であった。それゆえ、1917年に書かれた自伝のタイトルとなっている。

フランス語では「赤い悪魔」という意味の「ルージュ・ディアブル」(rouge diable)、「赤い小型機」という意味の「ル・プチ・ルージュ」(le petit rouge)などと呼ばれており、英仏連合軍内でのこの通称を、マンフレートは撃墜したパイロットから直接、聞かされた。

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森 貴史 関西大学文学部(文化共生学専修)教授

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もり たかし / Takashi Mori

1970年大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科在籍後、同大学第一文学部助手を経て現職。Dr. phil.(ベルリン・フンボルト大学)。専門はドイツ文化論、ヨーロッパ紀行文学。著書„Klassifizierung der Welt. Georg Forsters Reise um die Welt.“(Rombach Verlag, 2011年)、『踊る裸体生活』(勉誠出版、2017年)、『裸のヘッセ』(法政大学出版局,2019年)、『〈現場〉のアイドル文化論』(関西大学出版部、2020年)、『ドイツの自然療法』(平凡社新書、2021年)。訳書に『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』(ミヒャエル・H・カーター著、監訳、ヒカルランド、2020年)など。

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