夏目漱石「朝日新聞社長よりもスゴい」高年収ぶり その年収は現在の価値でなんと3000万円以上!

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帰国後、漱石は当時としては珍しい洋行帰りの紳士として、大学で英文学の教鞭をとります。しかし、生徒からは「授業がつまらない」と不評で、授業をボイコットされることがありました。漱石はストレスを募らせ、気晴らしの趣味を必要としました。それが、俳句や小説の執筆という創作活動の始まりだったのです。

明治38年(1905年)から翌年にかけ、夏目漱石は教師生活のかたわら、作品を次々と発表しています。3分冊として発表された処女小説『吾輩は猫である』のうち、上編の初版は20日間ですべて売り切れ、話題を呼びました

作家としての年収

作家デビューを遂げたこの年の彼の年収がどれくらいあったか、試算してみましょう。数字が明らかになっているだけでも、東京大学(当時は東京帝国大学)や明治大学の教師として得られた総計が1860円(=1860万円)。原稿用紙667枚分の原稿料収入は約318円(=318万円)。

最後にこの年の『吾輩は猫である』上編の印税収入ですが、この本を出版した大倉書店・服部書店は漱石の印税契約書を紛失したそうで、正確な印税比率はわかりません。彼の平均的な初版の印税率は15%で、2刷以降は徐々に上昇という著者に有利なものでしたが、今回は一律15%で計算してみます。

この年に刷られた初版〜3刷までの合計部数は4000部。これに1冊あたりの定価95銭を掛け算し、さらに1銭は現代の200円に相当するのでそれも掛け算。その数字に印税15率%を掛けて計算したところ、現代ならば1140万円がこの年の漱石の印税収入だったとわかります。以上、すべてを合計すると年収は3318万円。

大学勤めの給料に比べると作家としての収入は少ないのですが、『吾輩は猫である』の経済的な成功に注目した東京朝日新聞社から、「専属作家にならないか?」というオファーがきます。

こうして、明治40年(1907年)以降の漱石は、嫌いだった教師生活から完全引退できました。朝日新聞社専属作家として給与をもらいながら、新聞小説を書く日々が始まります。執筆ノルマなど気詰まりな制約はあったにせよ、待遇は実によく、現代の貨幣価値でいえば月給は200万円、年2回のボーナスが600万円。年収は3000万円にもなりました。朝日新聞社の社長よりも高額だったことには驚いてしまいます。

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しかも、この3000万円は作家・夏目漱石の「基本給」にすぎず、印税収入もありました。どの出版社で連載内容を単行本化してもよい契約で、漱石には3000万円+αの年収が約束されたのです。

小説の執筆は、漱石の数少ない気晴らしでした。しかしそれを職業にしてしまったことは、夏目家に大きな利益をもたらす反面、ストレスを感じやすい漱石本人を蝕んでいきます。本人の憂鬱度に比例するように漱石の作品は難解さを年々増していき、初版部数と増刷回数は減っていきました。

しかし、鏡子夫人が余ったお金を株式に投資したことで、夏目家のお大名暮らしは彼の死まではもちろん、彼の死後も続きました。

とくに大正時代、夏目家の印税収入は凄まじく、現役のベストセラー作家も凌駕していたことで「印税成金」などと陰口をたたかれるほどでした。筆者も文筆業のはしくれですが、漱石先生の安定した稼ぎっぷりには「羨ましい」の一言しかありません……。

堀江 宏樹 作家

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ほりえ ひろき / Hiroki Horie

大ヒットしてシリーズ化された『乙女の日本史』(東京書籍)、『本当は怖い世界史』(三笠書房)のほか、著書多数。雑誌やWEB媒体のコラムも手掛け、恋愛・金銭事情を通じてわかる歴史人物の素顔、スキャンダラスな史実などをユーモアあふれる筆致で紹介してきた。漫画作品の原案・監修協力も行い、近刊には『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』(KADOKAWA)などがある。

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