とはいえ、ソーシャルメディアをはじめとする昨今の拡散の仕方を見ると、悪名を封じ込めることはほとんど不可能にも思える。
重要なことは、犯人にとってそもそも社会というものがある種の不滅性を体現していると思えるからこそ、そこに永久に消えない傷を残そうとする動機づけも宿るという摂理がある。そういう意味において彼らは、神に生贄を捧げる神官のごとき過ちに囚われている。
かつて作家で殺人研究家でもあったコリン・ウィルソンは、「『社会に対する復讐』などというものは、やはりありえないことなのだ。可能なのは、社会をではなく個々の人間を襲ってその金を強奪したり、射殺したりすることだけだからである」(『現代殺人の解剖 暗殺者(アサシン)の世界』と述べ、それはまるで「蜃気楼に向かって石を投げるようなものであり、その石は、蜃気楼が見えた場所にたまたま立っていた人にぶつかってしまうのだ」と評した。
本当の地獄はどこにあるか
しかし、リアルな人間関係において尊厳を得られない者ほど、その欠乏を実りがない寒々とした物理空間ではなく、自らの存在が誰かの目に触れ、記憶に焼き付けられる可能性のある情報空間に活路を求めようとする。
これはソーシャルメディア上の注目度などで絶えず自己確証しようとするアテンション・エコノミー(関心経済)と親和性が高い。暴力的アイデンティティの獲得による面目躍如が魅力的な解決策のように思え始めるのだ。つまり、本当の地獄は「蜃気楼」に強烈な意味感を持つことでしか自らの心を奮い立たせることができない境地にこそある。ここにこそ肝心の答えが剥き出しになっているといえる。
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