今は昔、「貴賓室」もあった西那須野駅の黄金時代 一時期は私鉄が複数乗り入れ、皇族も利用した

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しかし、無人の荒野に線路を建設するほうが手っ取り早いとの判断や、那須野が原の一帯に明治新政府の要人たちが農場を所有していたことから、現在地に駅が開設されることになった。那須野が原に広がっていた農場は華族農場と総称され、彼らが鉄道誘致に一定の力を及ぼしたことは間違いない。

那須野が原開拓のトップランナーでもあった三島農場はすでにないが、バス停にその名を残す(筆者撮影)

日本鉄道が駅設置場所として考えていたのは三島農場と呼ばれる一帯だった。三島農場は、その名の通り山形県令・福島県令・栃木県令を歴任した三島通庸の農場のことだ。

明治に時代が変わっても未開拓地が広がっていた那須野が原一帯は、明治10年代から農地へと姿を変えていく。その背景には、華族たちが競うように私財をなげうって入植していったことがある。三島は那須開拓の先陣を切ったわけだが、県令在任時は道路インフラの整備に執念を燃やしたことでも知られる。三島は山形県・福島県・栃木県で無数の道路を建設・改修し、山形県から福島県までの大型道路は萬世大路と名付けられて、東京までの物資輸送に大活躍した。

農業用水確保に政府は消極的

三島が道路にこだわったのは、地方の殖産興業を推進するための下地づくりのためだった。農産品や工業製品を生産・製造しても、それを売らなければ意味がない。地元で売りさばければいいが、周囲はすべて農家だから買う必要がない。売るにしても人口の少ない地方では大した数はさばけない。地方を富ませるには、東京で販売するか海外へ輸出するしかない。道路整備は、地方の殖産興業活性化にもつながる。それが三島の考えだった。

三島は疏水事業にも力を振るった。地方における殖産興業は農業だったが、農業振興には水を確保する必要がある。明治新政府も水確保の重要性は認識しており、1879年に福島県の安積疏水を着工した。

安積疏水の責任者は後に日本鉄道の社長に就任する奈良原繁で、技術面は安積・那須・琵琶湖の日本三大疏水すべてに関わり、その後に天竜川疏水や野蒜築港でも辣腕を振るった南一郎平が補佐した。南の技術力は抜きん出ていたが、内務省土木局で大学出身のエリートが幅をきかすようになったため、それに嫌気がさして鉄道局へと転じた。鉄道局のトップだった井上勝は南の腕に絶対的な信頼を寄せ、主にトンネル工事を担当させている。

安積に続き、1880年には那須でも疏水計画が浮上する。しかし、安積で莫大な税金を投じた明治新政府は、那須疏水には消極的だった。

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