今は昔、「貴賓室」もあった西那須野駅の黄金時代 一時期は私鉄が複数乗り入れ、皇族も利用した

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那須は複合扇状地という地形で、砂礫層という地質だったことから開拓が難しかった。それも政府が尻込みした要因と思われるが、地元住民たちが強く要望したことが後押しして那須疏水は実現していく。栃木県令の鍋島幹は那須疏水の通水前から農耕に適していない荒野でも牧場経営なら可能と踏み、放牛を主軸にした農業を推進。鍋島の掛け声のもと、那須野が原には県営牧場が開設された。

三島農場の跡地は現在「那須野が原博物館」の敷地になっている(筆者撮影)

鍋島の県営牧場は軌道に乗っているとは言いがたい状況が続いたが、1880年に三島通庸が肇耕社(後の三島農場)を結成して農場経営を開始。同年、印南丈作と矢板武という地元住民が結成した那須開墾社も参入する。翌年には、いとこの関係にある大山巌と西郷従道との連名による加冶屋開墾場も開設された。

広大な規模を誇った加冶屋開墾場は、1901年に相続の問題を避けるために大山・西郷両家それぞれの所有地に分割されたが、その際には、大山・西郷どちらの所有地にも西那須野駅周辺の土地が含まれるように分割している。

1886年の駅開設後、周辺には商工業者が増加し、大山・西郷の農場経営に宅地の賃貸事業という新たな収入源が加わった。両家どちらの土地にも駅が含まれるように分割したのは、その後も賃貸事業が伸びると見越していたからだろう。駅周辺に市街地が形成されるという現象は明治期の地方都市でも起きていたことがうかがえる。また、大山・西郷は鉄道に都市化を促す力があることを認識していたことがわかる。

鉄道が牛乳生産を可能にした

華族農場は農家を継げない次男・3男を雇い入れるという役割を内包していたが、そのほかにも西洋式農具を次々と導入して実験する役割も担っていた。これは那須野が原が未開墾地だったこともあり、従来の農法では作物を栽培できなかったからだ。また、華族という大資本が農業に参入すれば、ほかの農家を圧迫しかねない。そうした心配から、これまでの農家と競合しない生産品を模索する。つまり、華族農場は今で言うところの農業ベンチャーだった。

華族農場では農家が手がけなかった牛乳と葡萄酒の生産が盛んになっていく。牛乳は何よりも鮮度がものをいう。冷蔵技術がない時代において、牛乳生産は消費地に近くなければ成り立たない。そのため、東京には多くの牧場が開設されていた。

日本鉄道の開業は、東京から離れた栃木県でも牛乳生産を可能にした。そして、東京で人気を呼んでいたアイスクリームが、那須では牧場経営・牛乳生産と一体化して製造できるようになる。明治の元老・松方正義が開いた千本松牧場でも牛乳生産・アイスクリーム製造を手がけ、現在も高い人気を誇っている。

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