現代を生きる私たちが「絶望」しやすい根本理由 「何かを成し遂げなければならない」という病
佐渡島:羽賀君は自身のことを「ダメだ」と表現することがあるけれど、あれは自分の才能に対して絶望しているの?
羽賀:難しいですね……。自分の中でどうやったら成長できるのか、「変わりたい」と言いながら変われていないのが現実で。「君たちはどう生きるか」と問いかけたまま、作品を出さずに死ぬわけにはいかないし(笑)。
でもこうして話をしてみて思ったのは、これって結局、鏡に映る自分を見て自分を探そうとしていることだな、と。「なりたい姿」は自分というものの外側にあるはずで、鏡を見る行為から外れないと、見つけられない気がしました。
人生は一列に並べたオセロゲーム
羽賀:「絶望」と「悲しみ」の関係はどうですかね? 「小さな悲しみ」はあっても、「小さな絶望」ってないと思うんですが。
佐渡島:そうだね。絶望は「もう立ち直れない」と、一度は本気で思うほどの大きな悲しみかも。でもこの定義を明確にするのは難しい。「ここからここまでが悲しみで、これ以上は絶望です」みたいな線引きなのか、そもそもまったく違うものなのか。
石川:佐渡島君の言った「もう立ち直れないと、一度は本気で思う」は、的を射ている気がするな。本当に二度と立ち直れないかは別としても、いったんそのレベルに至ってしまう。いちばん怖いのは、「絶望」と「衝動」が重なること。自殺につながるから、絶対に一緒にしちゃいけない。
「人はいかにして絶望から立ち直るのか」を考えたとき、感情の流れとして起こっているのは、「絶望」を粛々と受け入れることだと思う。明るい希望に向かって、いきなり「おー!」という感じではないよね。淡々と、ゆっくりとその絶望を受け入れていくことで、変化していく。
作家の水野敬也さんが、「人生は一列に並べたオセロゲームのようなもの」と言っていて。「生まれたときには、誰もが白い駒を渡されてスタートする。けれど生きていればイヤなこともあるわけで、黒い駒がどんどん置かれてしまう。でも人生のどこかで、たとえ最後の最後でもいいから白い駒を再び置ければ、それまでの黒い駒はすべて白に変わる」というもの。