現代を生きる私たちが「絶望」しやすい根本理由 「何かを成し遂げなければならない」という病

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©羽賀翔一/コルク

羽賀:ということは、極論ですけど希望を持たなければ、諦める必要も絶望することもなくなりますね。

佐渡島:まあね。でも「希望なんて最初から持たない」とか言う人がいるけれど、あれは持っていないフリをしているだけだと思う。そもそも本当に希望を持っていない人は、そんなふうに言わないだろうから。

私たちは、鏡に映る「自我」に苦しんでいる!?

佐渡島:羽賀君が言ったように、希望を持つこと自体に是非はないけれど、「人は何かを成し遂げなければならない」という感覚は、文明によってもたらされた一種の病ではあるよね。「生まれたからには、自分の爪痕を残そうぜ!」みたいな(笑)。

もっとこう、ぐうたらに生きるのもアリなんじゃないかと思うけれど、なかなか難しい。どうしても何かしたくなっちゃうんだよ。

石川:それは「個人」という概念があるからこその悩みだね。

佐渡島:そういえば夏目漱石も、「個に向き合うようになってから苦しくなった」的なことを言っていたな。

石川:……で、「個人」という概念がどのように生まれたかというと、僕は16世紀のルネッサンスがきっかけだと思っている。この時代に、ガラス鏡が普及したんだよ。

それまでにも鏡はあったけれど、高級品だから特権階級を除く多くの人は、自分の姿をクリアに見たことがなかった。見られたとしても、せいぜい水面に映る姿とかだから自己認識はあいまいだよね。でも鏡が市井に広く普及したことで大多数が自己をハッキリと認識するようになり、自己と向き合う文化や自我が生まれていったのではないかと。

羽賀:確かに、鏡があることで「他人と自分を比較する」行為も生まれますね

石川:そう。鏡がない時代は、自分と向き合う必要がほとんどなかったはず。コミュニティーや家族といった関係の中で、それなりに成立していれば問題ないわけだし。

佐渡島:自我が育つ思春期に感じる「漠然とした絶望」は、それに近いものかも。

羽賀:絶望とまではいかなかったけれど、僕は中学生のころ、背が低かったせいで「普通になりたい」と悩んでいました。声変わりもしていなかったので、目立ってしまうことがすごく恥ずかしかったんです。やっかいな自我のせいで、逆に「周りの景色になじみたい」と悩んでいましたね。

高校2年生で背が伸びたあと、ある日、不良のコたちが僕のところに来て、「お前が着られなくなった学ランをくれないか」と言われました。短ランになるから、ちょうどよかったみたいで(笑)。

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