自殺図った西郷隆盛に大久保がかけた胸刺す言葉 豪快に見えて実はとても繊細だった男の素顔

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生き残った西郷は「菊池源吾」と改名させられたうえで、奄美大島に送られた。島流しになったのは薩摩藩の判断で、西郷だけが生き残っていることを幕府に知られるとやっかいだと考えたからである。

大久保から「生き残ったからには、国家に尽くすべし」という激励を受けた西郷。自死の考えはとりあえず捨て、自分の使命を果たすことをいったんは決意する。

しかし、恩人の月照だけを死なせたことが、どうしても胸に去来してやまない。西郷より先に奄美大島へ島流しにされていた薩摩藩士の重野安繹が訪ねてくると、つらい心境を吐露した。

「投身入水という女子のしそうな手段を講じて、自分だけ生き残ってしまった」

島の生活は肌に合っていなかった

何かと気分が沈みがちな西郷だったが、島民たちが薩摩藩に砂糖の生産を強いられた挙句、搾取されていると知ると激怒。役人の島民たちへの暴力に立ち向かうなど、西郷らしい正義感も発揮している。

しかしながら、西郷が島民たちと心をともにしたかといえば、首をかしげざるをえない。島での生活が5カ月ほど経過した安政6(1859)年6月7日の時点で、こんな心境を大久保らへの手紙に綴っている。

「毛唐人たちとの交わりは極めて難儀で、気持ちも悪い。生き残った人生を恨む」

「毛唐人」とは、島の住民のこと。言葉が通じなかったため、西郷はそう表現したらしい。島民とコミュニケーションがとれないうえに、湿潤な気候も西郷の肌に合わなかった。体調不良に苦しめられた西郷は、少しでも状況を変えるため「せめて転居させてほしい」と親交のある代官に願い出ているほどである。

西郷といえば、恰幅のいい体格で知られているが、島に流される前はスマートだったという。寝て食うのがほとんどの島での生活が、西郷を不健康な肥満体へと変貌させたようだ。万延元(1860)年2月28日付の大久保らへの手紙で「豚同様にて」と自虐的に近況を報告している。

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