東武佐野線、「長すぎるホーム」が語る栄光の過去 随所に貨物輸送の面影、現在は通学の強い味方

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「葛生駅なんてもうまさしく一大貨物ターミナルでしてね。以前は広い構内を持っていて、山のほうに向かって貨物線が延びていて。かなりの本数が走っていたそうです。1961年には年間で200万トンくらいの貨物を取り扱っていました」(福澤さん)

お客を乗せて走るのは葛生駅が終点。そこから先は貨物専用線が続き、山に向かっていくつも分かれていく貨物線が集約する上白石という貨物駅もあった。扱っていたのは主に石灰石で、いまは東京スカイツリーがそびえる押上付近にあった生コンクリート工場まで原材料を輸送していたという。そんな貨物全盛の時代もとうに過ぎ、葛生駅から先の貨物線は1997年を限りに廃止。葛生駅の構内の一部は太陽光発電所に生まれ変わっている。

「昔はそれはそれは大きな貨物ターミナルだったんだと思います。貨物輸送はなくなって貨物線も廃止されましたが、今でも貨物線の跡の一部は残っています」(福澤さん)

架線柱が残る区間も

実際にその跡を訪れてみると、すっかり跡形もなくなっているところもあれば、盛り土の上には今も架線柱などが残されたままの区間もあった。草むす廃線跡に、数十年前に貨物列車が行き交っていた……。それほど昔のことではないのだが、廃線跡を見るとそうとう古い時代のことのように感じられるのはなぜなのだろうか。

葛生駅の広い構内の奥にはソーラー発電所(撮影:鼠入昌史)

ともあれ、1997年に葛生駅を介しての石灰石輸送は廃止された。が、それで佐野線から貨物輸送が消滅したわけではなく、2003年まで石油輸送が続けられている。千葉県にある京葉臨海鉄道浜五井駅から途中JR線を間に挟んで久喜駅から東武線に乗り入れ、渡瀬駅の少し北にあった北館林荷扱所まで。いまでも北館林荷扱所跡に隣接して油槽所があるのが車窓から見えるが、そこが目的地であった。

「1日に4往復、多かったころには1編成で最大13両のタンク車を引っ張っていました。ただ、最後のほうはだんだんタンクローリーでの輸送に変わっていって、輸送量も減っていきました。1週間に1日だけ、とかですね。貨車も9両くらいになった。それで最終的に2003年に廃止されたわけです」(丸山さん)

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