となれば、喜んでいただけているようであれば次もまた持参……と繰り返すことで、私が持っていくものを皆さまの暮らしの一部としていただかねばならない。そうこうするうちに、私の中に「物品別もらってくれる人リスト」ががっちりと出来上がってきたのであった。
果物→米屋、喫茶店
パン、野菜→米屋、スペインバル
酒→豆腐屋
本、雑誌→ブックカフェ
服→例のパン屋さん、カフェで知り合った友人
お菓子→ブックカフェ
……などなど。
これで、わが家に舞い込んでくるものの行き先は完璧に確保された。わが家がゴミ屋敷化する心配はようやくなくなったのである。われながらヨクヤッタと、自分で自分を褒めたい。
お金のやり取りでは得られないもの
さらにですね、この「あげる」という行為は、思いもよらなかった副産物をもたらしたのである。
もらっていただいた方々と私との関係が、なんだかえらく親密になってきたのだ。いや何も、ハグをし合うとか一緒に旅行するとかそういうことではない。それでも、お互いの間の「空気」は確実に変化した。そう、半分家族のような。
何しろこのたびのコロナ禍でも、われらはいつもの通り、楽しく立ち話をし、時に励ましあった。おかげで私の生活はステイホーム下でも孤独とはまったく無縁であった。
いやきっとコロナだけじゃない。何か困ったことがあったとき、頼ったり相談したりしあえる相手がいると思うだけで、自分の暮らす街の風景がとても暖かいものになった。何があってもきっと何とかなるという安心。それは、お金や肩書きでは手に入れることができない、とびきりの宝物であった。
確かに改めて考えてみれば、そもそも「もらっていただく」という行為自体が、信頼の証しなのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら