「一つ下の中3には、今年、西武ライオンズで2000本安打を打った栗山巧君がいましたし、中2にはヤクルトスワローズの坂口智隆君がいました。練習で二塁を守っていて栗山君の打球が飛んできました。“速っ!”と思ったのを覚えています。今になってみれば、栗山君の打球を捕ったことがあるのは幸せですね。彼は中学時代からティーでホームランを打っていました。“こういう子がプロ野球に行くんや”と思いました」
選手ではないので、神戸ドラゴンズでも公式戦には出場できなかった。しかし、監督はじめスタッフらの配慮により、練習試合には出られた。また野球はいろいろな仕事があると教えてもらい、マネジャー的な仕事もし、スコアなどもつけてスコアラーとしてチームに帯同し、チームにはなくてはならない存在になっていった。
新聞で知った女子野球のパイオニア
こうして橘田は野球部に入ったが、将来は見えなかった。
「私はいったい何をしてるんやろう、と悩んで、野球、もうやめようかな」と思うようになったある日、帰宅すると母が「こんなん載ってるで」と朝日新聞の夕刊をテーブルに置いた。そこには「米の本格的女子プロ野球リーグ、あす開幕」という見出しで鈴木慶子、山元保美という二人の日本人選手がプロ野球に挑戦すると書いてあった(1998年7月8日付け朝日新聞夕刊)。
鈴木慶子は女子野球のパイオニアと言うべき選手だ。王貞治と同じ誕生日だったことから「大きくなったら野球選手になる」と決心し、中学までは野球を、高校ではソフトボールをしたが、大学では女子軟式野球部を作ろうとしたが理解を得られず断念。女子野球のクラブチームでプレーをし、1995年にアメリカで女子プロ野球リーグが開設されると、それまで硬球に触れたことがなかったにもかかわらずトライアウトに参加。
その後はオフに日本で働いて資金をため、シーズンになると渡米してアメリカでプロリーグに参加した。プロと言ってもミールクーポンが支給される程度だったが、それでも毎年参加し、1998年に6チームからなる全米の女子プロ野球リーグができると、トライアウトを受けてそのうちの1つ「フロリダ・レジェンズ」に入団が決まったのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら