オーストラリアと日本でプレーをする生活を続けて2シーズン目、橘田恵は23歳で現役を引退し、指導者の道を歩むことを決心する。
「日本に帰ると花咲徳栄高校が女子野球の指導者を探していました。選手としてはそろそろ潮時だと思っていたので受験しました。教員免許を持っていたので、翌年4月に体育教員、女子硬式野球部のコーチに就任しました」
しかし花咲徳栄での2年間で、橘田は限界を感じるようになった。
「選手としては、いろいろなところでプレーしてきましたが、指導者の経験はありませんでした。それまでの私は、野球が好きなだけの人間だったんですね。ノックを打つことはできても、教えられることが少なかったし、みんな自分の型にはめようとしていました。選手たちの実力差も大きかったのですが、彼女たちのレベルに合わせた指導もできませんでした」
そこで鹿屋体育大学の大学院に進んだ。同時に、仙台大学時代の恩師が南九州短期大で女子野球チームを作ることになったのでコーチになった。大学院で学んだことを、女子野球チームのコーチとして実践することにしたのだ。選手兼任コーチとして1年、引退してコーチで1年、3年目には監督に就任。同時に鹿屋体育大学大学院体育学研究科を修了して、体育学修士になった。
「大学院で学ばせてもらいながら、現場で仕事をさせてもらえた環境にも、ただただ感謝でした」
監督に就任して2年目に全国優勝
2010年前後から、女子野球人気が高まり、社会人、大学、高校などで女子野球部を創設する機運が高まった。まだ現役選手と同様に体が動き、海外での経験も豊富な橘田恵は、若手指導者として注目されていた。橘田は履正社医療スポーツ専門学校女子硬式野球部(履正社RECTOVENUS)の監督に就任した(2012年~19年)。
「最初は一生勝てないんじゃないか、と思うほど弱かったのですが、選手たちが必死に練習して2年目の全国大会の初戦で初めて勝ちました。初めての勝利がコールド勝ちだったのですが、それでもチーム初勝利に選手みんな泣いていました。そこで勢いがついたのか、以後、接戦を勝ち抜いて全国優勝してしまったんです」
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