松下幸之助の成功は、多くの人に意見を求めたことに尽きる。
和歌山の海草郡和佐村で、代々そこそこの家であったが、父親が米相場に手を出し、無残にも家を潰してしまった。10人家族は、離散して故郷を捨てる。当然、松下少年も学校にいけない。小学校を3年半しかいっていない。9歳の時、大阪船場の火鉢屋に奉公に出されるが、すぐ倒産。五大自転車店に移る。そういう少年時代だから、学校には行けなかった。
学校に行けずに幸運だった
松下に言わせると、それが幸運だった、学校に行けなかったのがよかったという。どうしてそのような考えになるのか、どうしてそのような発言になるのだろうか。
しかし、これは負け惜しみではない。学校を出ていない松下は、わからないことばかりであった。文字にしても、計算にしても、一般的な知識にしても、どこからどうみても、ほかの人に比べて劣ることばかり。知らないことばかり。それを補うためには、人に聞く以外にない。素直に知っている人に尋ねる以外ない、そして、学び、覚え、活用していかなければならない。それによって多くの知識、知恵を学び身につけることが出来たのである。だから、学校に行けず、学んでいなかったことが幸いだった。松下は、良くそのような話をしてくれた。
実際、松下は、終生、周囲の人に、誰彼となく尋ねた。自分の聞きたいこと、迷っていること、知らないことなどを、何の躊躇もなく聞いた、尋ねた。松下の側で仕事をするようになった最初のころ、「きみは、どう思うか」とよく聞かれることに一種の驚きを感じた。主人と丁稚のような距離がある私に、自分はこう思うが、きみは、どう思うかと聞く。「わしは、この問題を今、考えて、こう思うが、きみはこの問題をどう思うか」「わしは、こう思うけど、きみは、どない思うねん」と。
これは、私にだけではない。手近な人に聞く、あるいは電話をかけて相談する。そのようなことは、松下にとって、特別のことではなかった。「きみ、聞くとな、みんな、丁寧に、いろいろ教えてくれる。有難いことや」。確かに、人間は不思議もので、相手が自分を信用して尋ねてくると、思わず、本気になって考え、答えるものである。そういうものである。もちろん例外な人もいようが、そこは聞いて、また、自分で考えればいいだけのこと。
1人ぐらいでたらめな人、親身でない人がいても、10人聞けば、10分の1、100人聞けば100分の1であるから、気にすることはない。それよりも、と松下幸之助は言う。自分一人で考えて、それで決断実行する、いわば「独断」は危ない、経営を失敗させる途につながると頻りに言っていた。
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