バットが重そうな選手もいたが、カキーンと鋭い音で打ち返す選手もいる。スイングの鋭さに驚いた。また、うまくゴロをさばく選手もいた。「健常者と遜色がない」という久保田氏の言葉は本当だったと思った。
それ以上にすばらしかったのは、参加者の表情だった。みんな夢中で球を追いかけ、声援を上げ、躍動していた。
未就学児や小学校低学年の子どもの「野球教室」でもゲーム形式になったとたんに子どもたちの表情が変わる。みんなが生き生きとした表情になり、球を打ち、グラウンドをかけまわるのだ。
野球は日本に紹介された当時、「打球鬼ごっこ」という異名があったが「打つ、投げる、走る」という野球の原初からある魅力は、子どもも大人も、障害者もなく、等しくみんなを明るく元気にする力があるのだ。
競技としての公平性を担保するための課題
知的障害者が健常者とともに球技に参加するには、いろいろと課題がある。2000年のシドニーパラリンピックでは、知的障害バスケットボールで優勝したスペインチームの12人の代表選手のうち10人は健常者だったことが発覚。その後、知的障害者はパラリンピックへの参加が一時できなくなった。
外見からわからない障害が多いだけに、難しい部分があるのだ。障害の区分や線引き、安全面や競技としての公平性を担保するためにも課題はあるだろう。
「甲子園夢プロジェクト」が現実のものになるには、恐らくまだ越えなければならないハードルがいくつかある。しかし、野球が知的障害のある若者に、新たなチャンスを与え、社会参加、生き生きとした人生をつかみとるきっかけになるのなら、その意義は大きい。久保田氏の挑戦が、多くに賛同者に引き継がれることを期待したい。
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