感染症危機管理においては、戦略指揮官個人の素質も重要だと述べる。すなわち医学・公衆衛生分野の専門知識に加え、法律知識、国際的能力、統治機構の知識、軍事的思想の5つの素養として備えている必要があり、また、広く感染症危機管理経験を積んでいることが必須だと述べる。
感染症危機対応には以上のような緊急時の危機的対応に加え、平時の備え(プリペアドネス)も必要だと指摘する。「実際に脅威が発生する前の事態準備行動によって事態対処行動の方向性が8割方決まり、危機が生起してから初めて一から考えて泥縄で対処したのでは、その時点で8割方失敗している」(同書p.186)として、平時の備えこそが危機的対応の基盤となると主張する。そのうえでヒト(人材育成と人的サージキャパシティの整備など)、モノ(危機管理医薬品の整備、輸入先の多元化、医療提供体制の整備など)、財源の整備、法整備、緊急時を想定した訓練など、多様な角度からプリペアドネスの詳細を語っている。
総じて、日本の感染症危機管理のあり方について、具体的なモデルを提示している。本書からは多くの現場を経験した著者ならではの、現実味あふれる提言も数多く見られる。一例を挙げれば、実際の危機対処にあたる人は、総じて多忙になり、判断が鈍りがちになり、意欲も減退しがちだと指摘する。そのような中、「食料の差し入れがあったり、温かい料理を食べることができると、幸福感が倍増するし、意欲も張って作業効率も上がり、新たな戦略的アイデアも湧いてくる」と危機管理現場で働く人々の環境づくりを重要な要素として挙げている。
国際協調がスムーズにいくとは限らない
他方で、いくつか考えさせられることも少なくなかった。第1は、感染症危機管理と軍事的危機対応を同一の俎上で語ることで、逆に見えにくくなる部分があるのではないかということだ。本書は一貫して、感染症危機管理における軍事的思考の必要性を説く。感染症のインパクトの大きさを踏まえれば、その危機管理に軍事的思考が必要であることは否定の余地はない。
一方で感染症危機管理には、特有の細やかさが求められる局面も少なくない。敵味方が明確に分離される戦争では、味方陣営の協力は比較的スムーズにいく。第2次世界大戦中の連合国陣営では、食料や軍事物資、公衆衛生に関する協力が驚くほど進展した。共通の敵に対して、同じイデオロギーを信奉するもの同士が結束しやすい局面もあるし、結束することが勝利という利得につながるからである。
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