ただの変人か、南方熊楠の再来か? 『裏山の奇人』を読む
……それ、カラスじゃなくて、小松さんを見に来たんだと思うよ。
だが、「研究」という視点で見たときに、こうした生きものたちとの関わりは何の役にも立たないし、あらゆる生きものに興味を向ける姿勢も、ひとつのテーマを突き詰めるより成果が薄いのではあるまいか?
声を大にして言おう。答えは「NO!」だと。森の生きものたちがバラバラに見えてもすべてつながっているように、一つひとつの生きものたちとの出会いが、着実につながりながら、広い視野をもつナチュラリストとして著者を成長させている。
たとえば、最初に夜の森でヒミズ(小型のモグラの仲間)を観察したとき、著者は少量の餌付けを行った。だが、その後、テンと出会ったときに、動かないことと音を出さないことを徹底すれば、餌を使わなくても至近で野生動物を観察できることを学ぶ。ヒミズのきっかけがなければ、テンでの学びもなかったはずだ。
雪の中にひとつだけ残された獣の足跡は、周囲の状況から、猛禽類に襲われて必死で逃げるノウサギがつけたものだと推理する。ごくわずかな手がかりから読み取れる情報量の多さは、一朝一夕で培われるものではない。多くの人は、身の回りでこんな生死をかけたドラマが繰り広げられていても、気づかないまま通り過ぎてしまう。
それが何の役に立つのか?
また、竹筒などに巣をつくるドロバチの研究では、竹筒を買うよりも安くて使い勝手のよい素材として、道端からタケニグサという草をタダで調達してくる。タケニグサが身近にたくさん生えていることに気づき、茎が竹のように中空であることを知らなければ、代替品になることなど思いつかない。日ごろからの広い関心が、こういうところで物を言う。
好蟻性生物の研究も、「それが何の役に立つのか?」と言われることがあるそうだ。だが、「いますぐ役に立たない研究」イコール「価値がない研究」ではない。
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