しかし、日本銀行は、もともと世界的に珍しく、長期国債を恒常的に買ってきた中央銀行であった。当時は日銀ルール(銀行券ルール)という、紙幣の流通量以下に長期国債の保有額を抑えるという自主ルールがあった。自主ルールではあったが、強力な歯止めとして、これを破るのは日銀としては絶対のタブーだった。しかし、黒田東彦総裁があっさりと無視し、外し、現在はこのタガは外れっぱなしどころか、ほとんどの人が忘れている。もう2度と戻ってくることはないだろう。
つまり、FEDも量的緩和(資産買い入れ)という危険な政策をとったが、危機対応であるという認識は保持し、隙あらば撤回するという姿勢で臨み、退却に成功した。一方、日本はそれに失敗しただけでなく、危機対応であるという認識が一般には薄れてしまい、今では日銀自身も諦めたかのような状況だ。
日銀は何を間違えたのか?
さて、日銀は何が悪かったのか。何を間違えてしまったのか。
第1に、2001年に量的緩和というものを発明してしまったことだ。この量的緩和こそが本当の量的緩和だが、それは長期国債を買い入れることではない。短期金利を政策目標にすることから、日銀当座預金残高を政策指標とすることに変更したことだった。これは、短期金利市場を壊すという副作用があるが、長期国債の市場を壊すよりは罪が軽く、「コストのかかるおまじない」に過ぎなかった。
しかし、これにより、量的緩和という画期的なおもちゃが、金融市場を知らないばかりか、日本経済の将来に対して無邪気で無責任な人々に与えられてしまった。日銀の政策手段が、王道の金利操作だけでなく、資産の買い入れ(このときは超短期国債であったにせよ)という邪道なものまで追加されてしまったのである。これが、後にリーマンショック後の政策、そしてアベノミクスによるリフレ政策という最悪の事態を招くこととなる。
第2に、量的緩和のイメージから、誤ったマネタリズムを振りかざす、いわゆる有識者の政策マーケットへの参入を招いてしまったことだ。彼ら(厳密に言うとマネタリズムを強引に都合よく解釈した「誤った」マネタリストたち)は、「とにかくマネーそのものを増やせ」と主張した。
実際、日銀の当初の量的緩和はそれを実行していたのだから、日銀がそれを否定するには、日銀の行った量的緩和と巷の誤ったマネタリストたちの主張する無邪気なマネタリズムを区別する厳密な議論が必要となった。結局、世間、メディア、政治家達には理解ができず、単純なお金が増えるというイメージに訴えかける彼らの主張がはびこることとなった。
彼らは「デフレと円高を解消し、日本経済の問題は一挙に解決し、バラ色の日本経済がやってくる」と騒いだ。これ以降、まともな「アカデミックな金融政策論争」は不可能になり、お金を日銀が刷ればすべて解決するというイメージが、どうして誤りなのかを説得することに政策論争のリソースがつぎ込まれるという不毛な10年間となった。この結果、経済政策は金融政策だけでなく、すべての分野で不在となり、日本経済の停滞に寄与した。
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