災害が多発する地球と「人新世」が未来に残す痕跡 コロナ禍が問いかける現代の物質文明のあり方

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そこでは古代人の足跡(フットプリント)化石を見ながら、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』やエリオットの『荒地』に思いをはせ、われわれの時代の「炭素の足跡(カーボンフットプリント)」について考える。

解説的につけ加えておくなら、このような「環境文学」という領域が英文学では主流の1つで、レイチェル・カーソンやメルヴィルなどがその古典であって、なかでもアメリカ文学では「ネイチャー・ライティング」というのは人気のある分野である。

日本でも石牟礼道子の『苦海浄土』は、環境文学としても高い評価を受けている。

人類はどのような「痕跡」を残すのか

このように、文学的なイマジネーションと環境学の交差するなかで研究と教育を行っている著者は、「非常に遠い未来に私たちがどう記憶されるのか」という着想に至ったようだ。

つまり、人類が残した痕跡(それは「未来の化石」とも呼ばれる)は何かを探ろうというのだ。過去を振り返る視線を現在に向けて、はるかな未来からこの現在が、「どのような痕跡(フットプリント)になるのだろう」と考えているのが本書である。

どういうことかというと、本書ではスコットランドの道路や橋、上海などの沿岸都市、ペットボトルやグレートバリアリーフなど世界各地に及ぶさまざまな場所を訪れ、それがどのような「痕跡」となるのかについて、想像を及ぼす。

いわばSF映画的に現在の風景を、早回しで「廃墟」にしてみる幻視を、世界のあちこちで試みているともいえる。過去の廃墟に見飽きた廃墟マニアが、未来からの視点で現在の光景を廃墟になったらどうなるかと考えたものともいえよう。

だがファリアーは単純な廃墟マニアではない。環境学の教授でもあるので、各地で研究者たちとの専門的な検討は怠らない。

実は困ったことに、何しろ英文学の教授であるので、文学的な教養が多すぎて、ついていけないところもある(その意味では訳者が訳註などを充実させていることで、読者は多く助けられる)。

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