松本人志「マヂラブ漫才は消える魔球」発言の真意 2020年M-1「あれは漫才なのか論争」を振り返る

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しかし、ボケとツッコミの定型をいかに崩すかということも、漫才の歴史であった。そして、それを最も先鋭的におこなったのが「お笑い第3世代」のダウンタウン、なかでも松本人志だった。例えば、松本が「一人大喜利」をしたとき、そこでなされたのは、ツッコミなしのボケだけで笑いは成立するかという果敢な実験であった。

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松本らのそうした挑戦は、笑い飯やオードリーなど、M‐1に出場する多くの漫才師に受け継がれた。だから、M‐1審査員を務める松本人志が、「あれは漫才なのか」という疑問に答えて言った「漫才の定義は基本的にない」という言葉は、松本自身の信仰告白でもあった。

そしてそのとき、漫才の歴史は上書きされることになった。伝統的なしゃべくり漫才ではなく、ダウンタウン的な崩す笑いが漫才の新たな歴史的起点となり、漫才は「なんでもあり」の自由なものであることが〝公式見解〟となったのである。

そうなれば、マヂカルラブリーの「掛け合いのない漫才」も、漫才の定義を裏切るという点で立派な漫才である。結局、「あれは漫才なのか」論争は、論争の帰趨そのものよりも、そうした歴史の書き換えをもたらした出来事として記憶されるべきものであるように思う。

太田 省一 社会学者、文筆家

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おおた しょういち / Shoichi Ota

東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。現在は社会学およびメディア論の視点からテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、音楽番組、ドラマなどについて執筆活動を続ける。

著書に『刑事ドラマ名作講義』(星海社新書)、『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『水谷豊論』『平成テレビジョン・スタディーズ』(いずれも青土社)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)など。

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