松本人志「マヂラブ漫才は消える魔球」発言の真意 2020年M-1「あれは漫才なのか論争」を振り返る

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芸人たちのこうした見解が傾聴すべきものであるのは間違いない。それは漫才を生業とする当事者としての、偽らざる実感でもあっただろう。もともと「漫才に定義はない」という主張も間違いだとは言わない。ただ他方で、その主張は漫才の歴史をやや単純化しているようにも思える。

当日、審査員を務めたなかで、他の審査員の見解とは少しニュアンスが違っていたのがオール巨人である。ファイナルラウンドに残った3組のなかで、オール巨人が投票したのは見取り図であった。その理由として、「(マヂカルラブリーのネタも)非常に楽しく見ましたけど、僕は漫才師やから、しゃべりを重点的に見てしまいました」と語っていた。オール巨人は「漫才=しゃべくり漫才」という価値観に忠実であろうとした。だから、それぞれの面白さを認めたうえで、ファイナルラウンドの3組のうちで最もそれに近いスタイルだった見取り図に票を入れたのである。

昭和初期のエンタツ・アチャコ以来、2人が言葉の掛け合いでもって笑わせるしゃべくり漫才が、その後ずっと漫才の基本形であった。この土台をなす部分は、ツービートや紳助・竜介らが本音の漫才で革新をもたらした1980年代の漫才ブームによっても変わらなかった。

前年王者のミルクボーイとも対照的

 ただ、その一方で、親しいもの同士による日常会話の形式をとるしゃべくり漫才に対して、何らかの設定を決めて役柄を演じるコント漫才も盛んに演じられてきた。M‐1に出場した歴代芸人のなかにも、「ピザのデリバリー」の場面を店員と客に扮して演じたサンドウィッチマンのように、コント漫才によって優勝を勝ち取ったコンビがいた。

とはいえ、そうしたコントスタイルの漫才でも、ボケとツッコミによる掛け合いがベースになっていた。それに比べてマヂカルラブリーの場合、掛け合いはほとんどなされない。その象徴が、野田クリスタルの〝無言〟のパフォーマンスである。だからこそ、「あれは漫才なのか」という、漫才の定義そのものを問うような言葉が、人々から発せられたのだろう。

その前年である2019年に優勝を果たしたミルクボーイのネタが、きっちりとした掛け合いによるしゃべくり漫才であったことも、いくらかは影響していたかもしれない。

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