「親友と同じ女性を好きになった人」への処方箋 痛みや葛藤を知る人ほど「優しい大人」になれる
若い人にとって、人生の大きな悩みの一つとなるのが、恋愛の感情でしょう。恋愛とひと口にいっても、さまざまな形があります。ただただ好きで、そばにいるだけでもう幸せというようなほのぼのした恋愛もあれば、激しく燃え上がり胸がこがれるような恋愛もある。肉体的な欲望におぼれてしまうような恋愛もあるし、遠く離れていてもつながっている喜びを感じる恋愛もあります。
これは、ただの欲望なのか愛なのかと悩み、葛藤し、ときには絶望する。相手を失えば、まるで人生が終わったような気持ちになることもあります。
愛とは? 恋とは? セックスとは? キリスト教ではどう考えているのでしょうか。お話ししていきます。
キリスト教と性欲
性欲は、人間の三大欲求の一つであり、それ自体は当たり前の欲求です。性欲がなければ人類は続いていないのですから、性欲を持つこと自体はいけないことではありません。
いけないのは、自分の性欲のために、「相手を道具のように扱う」ということです。性欲の解消のため、相手の身体を道具のように利用する態度は、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という教えに反しています。しかし人間は、欲望に弱いものです。気をつけないと、あっという間に快楽の世界におぼれてしまいます。
聖書には、欲望に堕落した人間たちを、神様が滅ぼしてしまう話が出てきます。旧約聖書の「創世記」にでてくる、ソドムとゴモラという2つの街のお話です。
この街の人々は、みだらな行為にふけり、暴力も横行していました。怒った神は、天から硫黄の火を降らせて、二つの街を焼き尽くしてしまうのです。
また旧約聖書には、古代イスラエルの民の指導者で、預言者でもあったモーセという人が、神から与えられたという10の戒律「モーセの十戒」が記されています。預言者というのは、神の言葉を聞いて、それを人々に伝える役割をもつ人のことです。
神から与えられた10の戒律のなかに、「姦淫してはならない」という戒律があります。姦淫とは、結婚して定められた相手ではない者と性行為をすることであり、子孫を残す行為としてのセックスではなく、一時の快楽を満たすためだけのセックスのことです。
ですから旧約聖書においては、セックスや性欲そのものを否定しているわけではありません。結婚して子孫を残すための行為として認めているのです。
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