三鷹駅「永遠のライバル」吉祥寺と切磋琢磨の歴史 北口は武蔵野市、かつては球場アクセス路線も
同球場の足には武蔵野競技場線が活用されるが、当時の感覚では都心から離れているということで不評だった。そのため、国鉄スワローズはワンシーズンだけしかホームスタジアムとして使用せず、以降の武蔵野グリーンパーク野球場は細々と使用されるだけになっていた。
1956年に野球場は解体される。その翌年には、日本住宅公団が約7ヘクタールの跡地に1019戸の緑町団地を建設。武蔵野競技場線は野球場がなくなったことで不要となり1959年に廃止される。団地住民の足として利用価値はあったはずだが、そうした検討はされなかった。わずかな期間だけ存在した武蔵野競技場線は、鉄道ファンや野球ファンの間では語り草になっている。
高度経済成長期を迎えた三鷹は宅地化が進み、それに伴って人口を増やしていった。当然ながら三鷹駅の利用者も増えていく。現在の三鷹駅は中央線のみだが、当時は人口増加を見込んだ多くの鉄道計画が浮上した。
こんなにあった「新路線計画」
もっとも熱が入っていたのが京王帝都電鉄(現・京王電鉄)だった。京王はすでに渋谷駅―吉祥寺駅間の井の頭線を運行しており、さらに吉祥寺駅から北進して東久留米駅までの路線や、井の頭線の途中駅である久我山駅や富士見ヶ丘駅から分岐して三鷹駅へと至る路線などを計画していた。富士見ヶ丘駅―三鷹駅間の計画路線は、実際にダイヤグラムも作成されて約12分間隔での運転が想定されていた。
その一方、京王は新宿駅―富士見ヶ丘駅―西国立駅間の路線も計画していた。この路線は富士見ヶ丘駅―三鷹駅間と競合するため、
そのほか、武州鉄道という新しい鉄道事業者が三鷹駅もしくは吉祥寺駅から埼玉県秩父市の御花畑駅とを結ぶ路線を計画していた。武州鉄道が目指した御花畑駅へは、西武鉄道が西武秩父線の建設を計画していた。また、西武は武蔵境駅から田無駅方面へ線路を敷設する計画も温めていた。
両社は競合関係としてしのぎを削ることになるが、すでに鉄道事業者として実績がある西武に対して、武州鉄道はまったく実績がない。また、経営陣も鉄道事業の経験がない素人集団だった。それゆえに、武州鉄道の上層部は路線を新設できるか不安を抱いていた。路線新設を急ぐあまり、同鉄道の上層部は政界工作をしかける。それが疑獄事件として明るみに出たことから、計画は頓挫してしまう。
戦後から高度経済成長期にかけて百出した三鷹駅からの路線は、結局は武蔵野競技場線以外に実現することなく、同線も短命で幕を閉じた。
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