「住みたい街上位」の常連、吉祥寺駅の紆余曲折 開業は武蔵境のほうが先、戦前は「軍都」だった

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吉祥寺駅北口は小さいながらも駅前ロータリーが整備されており、慌ただしくバスが発着する(筆者撮影)
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中央線は東京23区から多摩地区を東西に貫いているが、その沿線はほぼすべての駅が屈指の人気タウンとなっている。そんな中央線の中でも、突出した人気を誇ってきたのが吉祥寺駅だ。

中央線の前身である甲武鉄道は、1889年に新宿―立川間を開業させた。吉祥寺駅は、それから10年遅れて1899年に開業した。

甲武鉄道の開業時、中間駅として開設されたのは中野駅、境(現・武蔵境)駅、国分寺駅の3駅のみだった。現在は同じ武蔵野市に属する武蔵境駅のほうが開設は早かったのだ。今でこそ多くの人でにぎわう吉祥寺だが、当時はまだ農村でしかなかった。境駅が開設された理由は、江戸時代に玉川上水の畔に植樹された桜並木が名所になっており、見物客が多く見込めたからだ。

庶民は立ち入り不可だった「井の頭池」

吉祥寺駅の南側には、多くの都民に憩いの場として親しまれる井の頭公園がある。井の頭公園の集客力なら、境駅と同じように駅の開設が検討されるはずだが、当時は市民が気軽に憩えるような場ではなかった。

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徳川幕府が開かれたことにより、江戸の人口は急増した。そのため、水不足が起きる。幕府は玉川上水などを掘削して飲用水を確保した。その玉川上水が開削されるまで、江戸に飲用水を供給していたのが井の頭池だった。江戸の生命線であったがゆえに、幕府は池を厳重に管理した。気軽に庶民が足を踏み入れられる空間ではなかった。

それは明治新政府が発足した後も変わらなかった。徳川幕府から明治新政府に政権交代すると、井の頭池の管理権は東京府(現・東京都)に移った。しかし、すぐに多摩地域は神奈川県に属することになり、管理権も同県へと移譲された。こうして何度も管理権が変わり、さらに政府は財政難を理由に管理権を材木商へと売却。しかし、政府は井の頭池が重要な飲用水源であることを認識し、東京府に買い戻すよう命じた。

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