「住みたい街上位」の常連、吉祥寺駅の紆余曲折 開業は武蔵境のほうが先、戦前は「軍都」だった

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井の頭池および周辺一帯の管理権は二転三転したものの、最終的には東京府の管理下に置かれる。しかし、1889年には東京府から宮内省(現・宮内庁)が管理する帝室御料地へと変更された。宮内省の管理下になったため、井の頭公園一帯は再び立ち入ることができなくなった。

吉祥寺と同じ農村然としていた境駅は、先述した桜の植樹による需要が見込めたほか、篤志家が土地や駅開設資金を寄付した。それが駅開設を後押しした。境駅が開設されたことで、近隣の吉祥寺に駅開設の可能性はついえたように思えた。

しかし、吉祥寺の住民たちはそこで諦めなかった。有志たちが駅開設の誘致に動き出す。甲武鉄道が走り始めて10年が経過する頃には、鉄道の利便性が広く認識されていたこともプラスに働き、吉祥寺駅の誘致には多くの賛同者が集まった。

地元住民たちは境駅に倣って駅用地を確保し、自分たちの手で駅舎も建設した。すべての工事が完了した後、吉祥寺駅は甲武鉄道へと寄付される。ここまでして、ようやく1899年に吉祥寺駅は日の目を見た。

井の頭公園開放の立役者は「あの人」

しかし、この時点で井の頭公園はまだ一般開放されていない。そのため、吉祥寺駅の周辺は閑散とした田園風景が広がるだけで、来街者は少なかった。駅も北口だけが開設され、井の頭公園方面へとつながる南口はなかった。公園が一般開放されることによって吉祥寺駅はにぎわうようになるが、そのきっかけをつくったのが、今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一だった。

江戸時代は貴重な飲用水源だった井の頭池(筆者撮影)

渋沢は1867年にフランス・パリに滞在。パリ以外にもスイスやベルギー、イギリスなどを巡歴し、最先端の技術や文化に触れた。ヨーロッパでは戦傷者や病人を公的に扶助・支援する仕組みがあり、それを知った渋沢は帰国後に生活困窮者や高齢者、障害者を救済するために養育院を開設する。

渋沢が開設した養育院は歳月とともに規模を拡大。また、果たす役割も多様化した。そのため、分院を開設して役割の分担を明確化した。小石川区(現・文京区)に所在していた大塚本院は、非行少年の更生施設となっていた。明治維新の混乱で親を亡くした子供たちは食うために窃盗などを繰り返し、大塚本院はすぐに非行少年で溢れかえってしまう。

敷地が手狭になっていたことから新天地を探していた渋沢は、緑豊かな郊外地で交通の便に優れている吉祥寺に着目。広大な自然が手つかずのまま残る帝室御料地は、渋沢が描く理想の地だった。

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