「住みたい街上位」の常連、吉祥寺駅の紆余曲折 開業は武蔵境のほうが先、戦前は「軍都」だった

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渋沢は、ここに養育院本院を拡張移転したいと願い出る。政府も非行少年の更生は国家に資すると判断。1905年、帝室御料地の一角に井之頭学校が開校する。

渋沢は非行少年たちの更生だけではなく、将来を案じて学校卒業後もしっかりと働けるように職業訓練のような実習も取り入れた。緑あふれる帝室御料地は、木の伐採や除草といった手間を必要とする。井之頭学校の少年たちにそれらの作業をさせることで園芸・作庭の知識と技術を習得させた。

これらの作業が単なる雑用にならないよう、渋沢は東京市公園課長で後に公園の父とも称される井下清に協力を要請。井下の指導により、少年たちはスキルアップが図られていく。それと同時に、うっそうと木々が茂っていた帝室御料地は美しい姿へと変貌していった。

それを見た渋沢は、帝室御料地を下賜するよう宮内省に請願。これが認められて、1917年に恩賜公園として一般開放されることになった。

この一般開放を機に井の頭公園は園地の拡張・施設の整備が繰り返されることになるが、同時に行楽地としての人気も上昇していく。井の頭公園が一般開放される前年までは、先に開設された境駅のほうが利用者は多かったが、一般開放後は吉祥寺駅の利用者数が増えていった。

関東大震災を機に住宅地として注目

とはいえ、大正期までの吉祥寺は郊外地と認識されることが多く、都心部の小中学校が遠足で訪れるような場所でしかなかった。

吉祥寺を大きく変えたのは、1923年に発生した関東大震災だった。震災によって、郊外の安全性が大きくPRされるようになり、それは吉祥寺の宅地化にも影響を及ぼした。多くの住民が武蔵野へ住宅を構えて都心部へ通勤するというライフスタイルが芽生えつつあった頃、宅地化を見越して鉄道を計画する実業家たちは多くいた。

井の頭公園内を高架で走り抜ける京王井の頭線の電車(筆者撮影)

そのトップバッターは東京山手急行電鉄なる私鉄だった。同電鉄は現在の井の頭線の萌芽とされるが、当初の計画では大井町駅を起点に小山―中野―板橋―田端といった具合に吉祥寺を通らない。しかし、壮大な鉄道計画だったため、実現は困難だった。

同社の社長を務めていた小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)の総帥・利光鶴松は、計画が進んでいなかった渋谷―吉祥寺間の免許を保有する渋谷急行電気鉄道に着目。同社を買収し、東京山手急行の社名を改めた東京郊外鉄道に合併した。これが後の井の頭線となる。

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