三鷹駅「永遠のライバル」吉祥寺と切磋琢磨の歴史 北口は武蔵野市、かつては球場アクセス路線も

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1929年、鉄道省は中央線の運転本数を増やすために中野電車庫三鷹派出所(現・三鷹車両センター)を開設。同時に三鷹信号場が設置された。翌年、同信号場は駅へと昇格し、三鷹駅が開業する。当初、駅には南口しかなかった。

三鷹車両センターに並ぶ中央・総武線各駅停車の電車(筆者撮影)

三鷹駅と吉祥寺駅と比べると、駅周辺のにぎわいは雲泥の差だった。それでも駅が開設されたことによって三鷹駅は急速に巻き返していく。

三鷹に活況をもたらしたのは、軍需産業だった。多くの軍関連の企業が三鷹・武蔵野一帯に広大な工場敷地を求めて進出。なかでも三鷹に大きく影響を及ぼしたのが、1938年に開設された中島飛行機の武蔵製作所だった。武蔵製作所は武蔵野町に立地していたが、最寄り駅は三鷹駅だった。そのため、工場で働く労働者が三鷹駅を利用することになり、駅前はにぎわうようになる。通勤する労働者の利便性を高めるため、1938年には北口が新設された。

そして1941年には、武蔵製作所の西隣に新工場の多摩製作所が開設。武蔵野製作所は陸軍用、増設された多摩製作所は海軍用の航空エンジンを製造した。1943年には両工場は統合されるが、同工場で製造される航空エンジンの国内シェア4分の1を占めるほどにまでなっていた。

中島飛行機への引込線

武蔵製作所には、三鷹駅のひとつ西隣となる武蔵境駅から貨物輸送を円滑にするための引込線が2本も敷設されていた。1941年に中島飛行機の研究機関となる三鷹研究所が開設されると、武蔵境駅から多摩湖鉄道(現・西武鉄道多摩川線)の線路を走り、さらに三鷹研究所までつながる引込線が建設される。

1944年には、武蔵製作所から北へと延びる引込線も建設される。武蔵製作所から北へと延びる引込線は中島航空金属田無製造所へ、そして中島航空金属田無製造所からは武蔵野鉄道(現・西武鉄道池袋線)の東久留米駅へとつながる路線が敷設された。

そうした点から見ても、三鷹が農村から脱却して発展する過程に中島飛行機、特に武蔵製作所の影響は大きい。武蔵製作所を抜きにして、三鷹駅の発展を語ることはできない。

武蔵境駅から延びていた引込線は敗戦とともに廃止される。しかし、武蔵境駅から延びていた線路は、新たに三鷹駅へとつながるように改良。1951年に中央本線の支線として復活し、武蔵野競技場線と通称された。

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