三鷹駅「永遠のライバル」吉祥寺と切磋琢磨の歴史 北口は武蔵野市、かつては球場アクセス路線も

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武蔵野競技場線が復活した背景には、プロ野球の影響があった。もともと、プロ野球は阪急電鉄総帥の小林一三が鉄道会社の集客戦略として考案し、各鉄道会社がチームを保有する電鉄リーグを提案していた。この構想は実現しなかったが、多くの鉄道会社がプロ野球チームを持ち、集客戦略として活用した。そして、それは私鉄だけではなく、国鉄も同じだった。

三鷹車両センターに架かる跨線橋。文豪・太宰治がよく通っていたことでも知られる(筆者撮影)

1950年、日本のプロ野球にセ・リーグとパ・リーグが正式に発足。大戦中、野球は敵国のスポーツとして忌避され、プロ野球も大の大人が遊んでいると世間から白い眼で見られていたが、戦災復興で野球は多くの国民に希望を与えることになる。

国鉄2代目総裁の加賀山之雄は国民人気が高まっていたプロ野球に着目。加賀山は国鉄の前身である運輸省鉄道総局長在任時に軟式野球チームを結成してピッチャーを務めるほどの野球好きだったため、国鉄の外郭団体である交通協力会の理事長だった今泉秀夫からプロ参入を持ちかけられると、すぐに検討を開始した。

今泉が収支のシミュレーションをしたところ、プロへと参入すると年間1000万円の赤字になると判明。プロ野球参入前の国鉄にはスターが不在で、高額な年棒を払うような選手はいない。それでも当時の金額で1000万円もの赤字が出る。1949年に公共事業体として発足したばかりの国鉄にとって1000万円は重い負担であり、それら赤字を税金から補填することは世間が理解してくれるはずがなかった。

スワローズの本拠地に

それでも、加賀山は1950年シーズンから国鉄スワローズのプロ野球参入を決めた。そこには、プロ野球へと参入することで国鉄職員の士気高揚と世間が国鉄に抱く負のイメージを払拭するという意図があった。1949年には三鷹駅で無人電車が暴走する「三鷹事件」をはじめ、下山事件・松川事件と、後に「国鉄三大ミステリー」と言われる事件が続き、国鉄内部には沈滞ムードが漂っていたのだ。

国鉄は武蔵製作所跡地にオープンした武蔵野グリーンパーク野球場をホームスタジアムに定める。武蔵野グリーンパーク野球場は武蔵野文化都市建設株式会社が建設し、1950年に株式会社東京グリーンパークへと改称している。

社長には東海大学総長で後に衆議院議員を歴任する松前重義が就き、そのほか作家の武者小路実篤、日本初のマルチタレントとも称される徳川夢声、内閣総理大臣を務めた近衛文麿の弟で音楽家の近衛秀麿など文化人が役員に名を連ねた。

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