後半は、95年から2002年頃までの期間だ。前半からの転換をもたらしたのは、95年頃からの円安政策だ。これによって輸出が増加に転じ、それが国内投資需要の落ち込みを補填して、総需要の落ち込みを抑えた。つまり、内需から外需への切り替えが行われたのである。
貿易黒字はさらに拡大を続け、03年頃からの外需依存経済成長をもたらした。それが経済危機によって崩壊したのである。
90年代前半の下降過程
最初に、90年から95年頃までの期間を見ることにしよう。
民間企業設備投資は、80年代には増加を続けていた。実質成長率は、83年度までは1ケタであったが、84年度から90年度までは、(86年度を例外として)2ケタの値となった。特に88年度には、19・9%という極めて高い伸び率になった。
ところが、この状態が90年度から一変したのである。91年度から94年度までは、4年間連続で伸び率がマイナスになった。特に93年度には、マイナス12・9%という激しい落ち込みになった。
住宅投資も、80年代後半には高い伸びだった。特に87年度には、実質の対前年成長率が24・5%というバブル状態を呈していた。ところが、89年度以降変調し、91年度にはマイナス9・2%の伸び率になった。
この時期の経済停滞を説明するものとして多くの人に受け入れられたのが、宮崎義一氏の『複合不況』(中公新書、92年)の考えだ。
これは、バブル崩壊がその後の経済停滞の大きな原因になったという考えだ。特に、銀行が不良債権を抱えたため、貸し出しに消極的になり、そのために設備投資が減少したとされた。また、株価低下によって銀行保有株式の「含み益」が減少したため自己資本が低下し、比率を維持するために資産を圧縮せざるをえなくなったとも言われた。いわゆる「貸し渋り」説である。