「非営利組織」経営こそ第一級の人材が必要な理由 佐治敬三と山崎正和の幸運な出会いと知的起業
財団という制度そのものは、もちろん山崎の創造物ではない。山崎の念頭にあったのは、20代のアメリカ留学中にニューヨークで世阿弥を上演するにあたってアメリカの民間財団から援助を受けた際に目の当たりにした、人々が自腹を切って文化活動を支える市民社会の姿だった。これがサントリー文化財団を構想する発想の源になった。
「役にたたない」学芸を助成する財団の設立
しかし民間財団は、先立つものがなければ成立しないのは言うまでもない。ここで佐治敬三という、個性的な経営者の存在があった。佐治はサントリー創業80年の記念事業について、山崎に相談を持ち掛けた。佐治の見識が光るのは、いったん信頼すると当時まだ40代前半の山崎らに存分に腕を振るわせ、事業内容に干渉しようとしなかったことだ。そのため、驚くほど短い間に学芸賞、地域文化賞、研究助成、自主研究会の開催といった財団の事業の骨格が山崎を中心に固まり、半世紀近くたった今日に至っている。
それは単なる金持ちの気まぐれではなかった。「役にたたない」学芸を助成する財団の設立は、いくら佐治がオーナ経営者であっても社内の抵抗を抑えるのは大変だった。また企業業績はいつも順調とはいかないから、民間企業にとって財団を支援し続けるのが苦しいときも当然あった。
だが佐治は動ずることなく財団と山崎を支え続けた。その佐治が珍しく「面白そうだから」と言って自ら所望したのが、1980年から3年にわたって開催された国際シンポジウムである。海外から大物知識人を招待して、山崎自身に加えて、高坂正堯、小松左京らとパネルを組むシンポジウムは、当時の日本では目新しくそれだけにノウハウもない一大事業だった。
佐治はみずから夕食会を主催して登壇者を接待し、食事がひと段落すると能衣装で登場し、謡曲と舞を披露して、一同を魅了してしまった。ダニエル・ベルは隣にいたクロード・レヴィ=ストロースに、「アメリカの大企業のトップで、シェークスピアのソネットを朗唱し、エリザベス朝風の曲が歌える人間なんて、想像できるかい?」と漏らしたという。
起業家がいて投資家がいても組織や人材がそろわなければ立派な企業にはなるまい。財団も同様で事務局組織とそこに人材を得なければ、一代限りの「個人商店」になって長続きしないか、官僚化して閑職になる危険が高い。そうなれば、公益財団はリスクをとって意義のある新しい挑戦をするよりも、ご神体を守りながら組織の再生産そのものが目的となる、神社のような存在になってしまうだろう。
この点でも山崎は周到だった。まず佐治をはじめとする歴代の理事長に、サントリー本社から財団事務局に出向する人物は、一級の人材を送ってきてほしいと繰り返し念を押した。第2に、事務局は意識的に小規模にとどめ、事務職員がさまざまな事業にそれぞれの分野の専門家とともに取り組む体制を作った。アメリカの財団にはさまざまなプロジェクトの可能性や実施状況を調査して、プロジェクトと理事会をつなぐプログラム・オフィサーという仕事が、専門職として確立している。財団が、ひいきの学者や芸術家を侍らせて金持ちが自己満足する手段ではなく、知的インフラとして継続的に成果を出すには、事務局も主体性をもって腕を振るえる制度設計と組織マネージメントが欠かせない。
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