慎重なトヨタが「HV開発」で他社に先行できた理由 経営陣の無茶ぶりなくして「プリウス」はなし
経団連会長にもなった奥田碩氏が1995年に社長になるまでのトヨタは「石橋を叩いても渡らない」といわれるほど、何事につけても慎重な社風だった。そのトヨタがなぜ世界に先駆けてHVを市場に送り出すことができたのだろうか。
「燃費目標を2倍にせよ」発言の衝撃
少し昔話になるが、1997年末に誕生したHV「プリウス」を振り返る。
「21世紀に間に合いました」。プリウスが誕生したときの宣伝文句である。発売日12月10日の翌日の11日、地球温暖化防止京都会議(COP3)で京都議定書が採択された。プリウスが環境問題を解決する申し子のような存在になったのは極めて自然なことだった。
プリウスはCOP3と連携するような形で世に出たが、実は開発担当者らはCOP3を目標にしていたわけではない。開発の原点は1993年9月。当時の豊田英二名誉会長(2013年死去)らが立ち上げた「G21プロジェクト」だった。
「21世紀に提案できるクルマをつくろう」という英二名誉会長の思いで始まったものである。G21のリーダーだったのが現トヨタ会長の内山田竹志氏。1994年秋にまとめた企画案では1999年末までにガソリンエンジンの改良と新型変速機を開発することで燃費を1.5倍にするという内容だった。歴史の長いエンジン開発は成熟した技術分野だとみられていた。そのため、1.5倍という目標も期限内に量産車をつくるには「挑戦的な内容」と内山田氏らは考えていた。
だが豊田英二名誉会長ら経営陣は「1.5倍」に満足はしなかった。当時の開発担当の和田明広副社長は「燃費目標を2倍にせよ」と強く指示した。「もっと挑戦せよ」という厳命だった。
開発担当者らは計画を大きく見直さざるを得なかった。ガソリンエンジンの改良では1.5倍の燃費向上が限界である。2倍にするには全く異なる仕組みが必要になった。
当時、すでにFCV(燃料電池車)は研究されていたがあと数年で量産車をつくれる可能性はなかった。可能性があるのは、減速時にエンジン車では大気中に捨てていた熱エネルギーを電気エネルギーに変えて回収する「回生ブレーキ」を使うことだった。エネルギー損失が減るので燃費はさらに上げられる。しかも回生ブレーキは電車などでも使われている技術で、全く手つかずのものではなかった。トヨタのHV(ハイブリッド車)開発はこうして始まった。
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