慎重なトヨタが「HV開発」で他社に先行できた理由 経営陣の無茶ぶりなくして「プリウス」はなし
自動車でも内燃機関のエンジンと電動モーターの両方を搭載するアイデアは昔から試されていた。米国人技術者H・パイパーがガソリンエンジンのパワーアップを狙ってモーターを搭載する特許を1905年に出願したのが最初だという。当時はCO2削減が狙いではなく、パワーアップが狙いだった。その後も欧米のメーカーが様々な形で開発に乗り出したが、量産化するには至っていなかった。
「もう1年前倒ししろ」
HVの開発はトヨタとしては初めてだが、何とか21世紀までに量産化は可能だと判断し、HVの開発に大きく舵を切った。HVの開発が決定されたのが1995年6月。発売時期はG21の設定目標1999年末を1年前倒しして1998年末とした。ところが決定後の8月に社長に就任した奥田氏が「もう1年前倒ししろ」と言い出した。
開発陣は日本メーカーだけでなく外国メーカーもHVの開発を進めていることはわかっていた。「2番手では意味がない。世界初の量産化を実現しよう」と前倒しを受け入れた。とはいえ自動車にエンジンとモーター、バッテリーを搭載するのはトヨタとしては初めてだ。モーターもバッテリーもトヨタはつくったことがない。電機メーカーやバッテリーメーカーが得意な分野であり、トヨタにはノウハウはあまりない。HVの開発は困難を極めた。
開発陣の奮闘があって、プリウスの発売日は京都で開かれたCOP3の最終日、1997年12月10日になんとか間に合ったが、その日にトヨタの高岡工場(愛知県豊田市)で量産が始まるという滑り込みセーフという状況だった。
もしもG21の開発目標が「燃費を1.5倍」のままだったら、トヨタはHVを1997年末に発売してはいない。高性能のガソリン車を発売しただけである。目標を「2倍」にした経営陣の、いわば「どた勘」の判断のお陰だといえる。
同じころHVを開発中だったホンダは「お客さんに買っていただけるまでのコストダウンは難しい」と判断し、HVよりもガソリン車の燃費向上の方に力を入れていた。ホンダはトヨタから2年近く遅れて1999年9月にHV「インサイト」を発売し、2番手を悔しがった。
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