歴史の奥深い「ヒップホップ」若者が虜になる背景 「ラップ」との厳密な違いを説明できますか?
イギリスのパンクバンド、クラッシュは、1980年にラップを取り入れた「7人の偉人(The Magnificent Seven)」を発表しました。
1981年にはアメリカのブロンディが「ラプチュアー(Rapture)」を発表し、Billboard Hot 100でトップを獲得します。これが、ラップを含んだ楽曲初の1位作品となりました。
1982年、3大DJの1人、グランドマスター・フラッシュが、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴを結成して、「ザ・メッセージ(The Message)」を発表します。タイトルの通りメッセージ性が強く、黒人たちのゲットーの生活を歌い、皆に「これでいいのか」と問いました。
こうしたメッセージ性の強いスタイルを指して「コンシャス・ヒップホップ」とも称します。この曲を皮切りに主張性を追求する曲が増え始めたことからも、今のヒップホップのかたちを作った屈指の名曲といえます。
草の根から生まれ、大衆化の道へ
1970年代の黎明期のヒップホップが「オールドスクール」と呼ばれるのに対して、1980年代のヒップホップは「ニュースクール」と称されます。ヒップホップは草の根から生まれ、発展しながらオーバーグラウンドに行くという、ブルースと似た流れをたどり、大衆化の道を進み始めました。そして、同じリズムをループさせるヒップホップの手法はオルタナティヴ・ロックやメインストリームのポップスに影響を与えていきます。
また1980年代半ばになるとサンプラーが安価になり、普及し始めます。サンプラーは主にトラックメイキングに使われています。これは、既存の音楽から好きな部分だけを切り取り、自在に再生出力できる技術で、特にヒップホップシーンで活用されました。
1984年に、ラッセル・シモンズとリック・ルービンによって、デフ・ジャム・レコーディングスというヒップホップのレコード・レーベルが設立されます。これが、ヒップホップがブロンクス地区から大きく羽ばたくきっかけとなりました。デフ・ジャムからは、RUN DMC、ビースティ・ボーイズ、パブリック・エネミーといったアーティストが登場します。
RUN DMCは、ブロック・パーティーでも人気の高かったエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ(Walk This Way)」を、エアロスミスのメンバー本人をフィーチャーして、1986年にリメイクします。大物ロッカーとヒップホップのアーティストによるコラボは驚きをもって迎えられ、RUN DMCは全国規模で白人のオーディエンスを獲得するのです。
ビースティ・ボーイズはもともと、ハードコアをやっていた白人バンドですが、ヒップホップに転向し、1986年にデフ・ジャムからアルバム『ライセンス・トゥ・イル(Licensed to Ill)』を発表します。今度はこれが黒人のオーディエンスに受け入れられて、白人ヒップホップとしてのヒット第1号となりました。
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