本章の冒頭に登場した男性は、その3週間後に私へ手紙をくれた。一部を抜粋してみよう。
読み終わった私は、不思議な感慨に襲われた。父を許すわけでもなく、父の死を悼むわけでもない。しかしそこには、たしかに父への祈りが満ちているのだった。
中略……父の住んでいるマンションをヘルパーさんが訪問してくださったときは、まだ手を振っていたというんです。ところが、その翌日は、前日より気温が一気に10℃も下がりました。どこかで、その変化が気にはなっていました。
……中略……第一発見者が家族でない場合、不審死になってしまいます。だから、市役所の職員に言われるままに、僕はがんばってマンションの扉を開けて、父の姿を見ました。全裸でした。やせ衰え、脱水症状がみてとれる体でした。顔は、カーテンの向こうにおおわれていて、見えませんでした。
僕の視野には、父の死体しか入っていませんでした。そのまわりの光景は捨象されたかのように暗闇に沈み、奇妙にそれだけがくっきりと浮かび上がっていたのです。
自宅に帰った僕は、おそらく最後まで父の葬儀に出ようとしないだろう母に向かって『父さんの部屋、意外ときれいに片付いていたよ』と報告しました。
しかし、その後部屋の片付けに訪れた僕は驚きました。足の踏み場もないほど、乱雑に物が散らかっていたからです。遺品を整理しながら、心底奇妙な経験に思えました。あの瞬間の僕の視野からは、父の死体以外のものはすべて消え去ってしまっていたのでした。
僕は、霊安室からいったん黙って立ち去ろうとしました。幼少期から、僕と母への、さらには兄への怪物めいた数々の行為を思えば、遺体を見るだけでも、見てやっただけでもどれほどのことだろうか、と思っていたのですから。
しかし、階段を五段降りたところで僕は立ち止まり、再び戻って扉を開けました。そして父の遺体の枕もとにおかれた線香立てに、マッチで火を点けた線香を3本だけ立てました。その煙を吸い込みながら、思わずクリスチャンの僕は、手のひらを合わせて「どうか天国に行かせてあげてください」とお祈りをしました。
それは、あの父のためだったのでしょうか。
ゆきずりの人であっても、見知らぬ人であったとしても、死にゆく人であれば僕は等しくそう祈るだろう、そんな祈りの言葉だったように思えるのです。
母と相談もせずに遺骨を引き取った
彼は、父とは財産目当てだけで離婚しなかった母と相談もせず、父の遺骨を引き取り、散骨することに決めた。相談しても母は「知らない」と言って、二男である自分にすべて押し付けることがわかっていたからだ。
長男である兄は、父の遺体が安置されている霊安室を訪れることすらしなかったので、彼は1人で骨を撒きに湘南の海に行った。業者の指示どおり、沖までクルーザーに乗って、そこで父の骨を撒いた。そして、最後に小さな白いランのブーケを海上に献花し、祈った。残りの骨は、彼が自分の部屋の北側にある本棚を一段空けて、そこに安置したという。
このエピソードは、ひとりの男性が父の死に際してどのように対処したかが一篇の文学のように結晶化している気がする。
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のぶた さよこ / Sayoko Nobuta
1946年岐阜県生まれ。原宿カウンセリングセンター所長。お茶の水女子大学文教育学部哲学科卒業、同大学大学院修士課程家政学研究科児童学専攻修了。駒木野病院勤務を経て、1995年に原宿カウンセリングセンター設立。日本公認心理師協会理事、日本臨床心理士会理事などをつとめる。アルコール依存症、摂食障害、DV、子どもの虐待をはじめ、親子・夫婦関係、アディクション(嗜癖)に悩む人たちやその家族、暴力やハラスメントの加害者、被害者へのカウンセリングを行っている。著書多数。
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