意外と知らない「カウンセラー」驚愕する仕事内容 時には依頼者の親の死を一緒に喜ぶことも

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親の死を喜ぶ子どもなど、一歩カウンセリングの場を離れれば、非難の対象になるに決まっている。まして、親族は許すはずもないだろう。たとえ内心でその死を喜んでいたとしても、葬儀の場面では形式的にその死を悼むに違いない。儀式とは、参列者の内面の自由を保障する形式に満ちており、彼女もおそらく母の葬儀では涙を流したに違いない。

彼女にとって、カウンセリングは一種のアジールであった。ある人は「解放区」と呼ぶ。世間のドミナントな家族言説から解放される場、それがカウンセリングの役割なのだ。私が最初からそう決めていたわけではない。クライエントたちの要求によって、次第にアジール化してきたといったほうがいいだろう。範型を豊かにすることは、クライエントの要求によって起きるのだ。

なぜ、アジールが必要なのか。「私は親からまったく愛されませんでした。だから親のことは嫌いです」「母親の存在が不気味で恐怖すら抱いてしまいます」「いっそ早く死んでほしい」という、衷心から発する言葉が無批判に聞かれる場所がなければ、彼女や彼らは孤立無援の状況におかれてしまうからだ。

自分が感じていることが「正しくない」「ヘンだ」「異常だ」と批判されて責められること、自分が感じ、考えていることが誰からも承認されないこと、このような状況で人は生きていくことはできない。たとえ生命は維持できたとしても、精神的生命は絶たれてしまうのだ。

クライエントは命を賭してカウンセリングを求めている

ドミナントな家族言説は、外部から強制されるだけではない。あらゆる媒体をとおして空気のように入り込むことで、いつのまにか、クライエントも深くそれを内面化してしまっている。

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むしろ、内面化したドミナントな言説からの脱出のために、アジールが必要だといってもいいだろう。自分自身の中で起きるドミナントな言説との闘いや葛藤、闘うことへの深い自責感や罪悪感は、脱出を試みた人たちが避けられない苦しみでもある。

クライエントは、内なるドミナントな言説に呑み込まれてしまいそうにもなるだろう。それは、1つの死にも等しい。精神的崩壊を意味するだろうし、時には自殺という帰結もありうるかもしれない。闘おうとすれば、同時に湧いてくる罪悪感とも闘わなくてはならない。どちらを向いても孤立無援な闘いしか見えないとき、たった1つのアジールが不可欠なのだ。

クライエントは、生きるために、命を賭けてアジールとしてのカウンセリングを求めているのだ。そうしなければ生きていけないからである。とすれば、カウンセラーの役割は明瞭である。目の前のクライエントが生きていくことを支援するのだ。そのために、彼女が親の死を喜んでいるのであれば、ともに喜ぶ。ためらいもなく、そうするのである。

私がそうすることによって、クライエントが親の死に微妙な距離感を獲得し始めるのも不思議なことだ。

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