「福知山線脱線事故」16年後の「経営効率と安全」 「民営化後最大の赤字」に苦しむJR西日本の現在
こうした事故の教訓が組織の末端まで十分に浸透しているとは言えず、2017年には台車に亀裂の入った新幹線を走行させる重大インシデントを引き起こしている。これを機に、JR西では「異常を感じたら迷わず止める」ことが厳しく言われるようになった。重大インシデント以前、新幹線を止めるのは年に数件だったのが、18年度は41件、19年度は31件、20年度は34件と大きく増えている。
現在のJR西について、淺野氏は言う。
「経営が厳しいことは聞いている。しかし安全の確立とは、機器の導入や設備の更新といったハード面の投資だけではない。制度や体制、システムの運用といった、むしろソフト面で組織的に取り組む問題だ。事故を風化させない、安全を最優先すると言うなら、福知山線事故から得た教訓に何度でも立ち返り、これまでの取り組みを検証してほしい」
原因究明と安全確立を妨げる「切断処理」
個人の責任追及では事故は防げない。事故を人とシステムの不調和ととらえ、組織的に予防策を取らねばならない──。これが淺野氏の中心的な主張だ。その教訓をJR西という一企業にとどめ置かず、広く社会に発信するべきだと彼は言う。「事故の社会化」こそが、遺族である淺野氏の願いなのである。
ところが、社会の処罰感情の強さから生じるのだろう、「個人の責任追及」志向、言い換えれば「悪者探し」の発想はなかなかなくならない。事故の本質的な原因究明や再発防止において、刑事責任をはじめとする個人を罰する考え方は有用でないばかりか、「場合によっては邪魔になる可能性すらある」と淺野氏は述べている。
最近その典型とも言える〝書評〟が『軌道』に対して書かれた。評論家の佐高信氏が日刊ゲンダイに寄せた記事である。
佐高氏は拙著について、国鉄民営化を主導し、後に「JR西の天皇」と呼ばれた井手正敬氏への責任追及が弱く、「事故において会社の責任、組織の責任なんていうものはない。個人の責任を追及するしかない」と語った彼に〈根底から反論できていない〉と批判する。そして、〈「個人の責任を追及するしかない」にだけ賛成して私は井手の責任を追及する〉と書くのだ。
一度出版した本がどのように読まれようと、それは読者の自由である。「自分の考えと違う。この著者はわかっていない」と難じる人がいるのも致し方ない。だが、高名な評論家のマスメディアへの寄稿により、広く流布された自著批判に対し、反論する権利ぐらいはあるだろう。
ひと言で言えば、彼はこの本の何を読んだのかと思う。いや、おそらく読む気がないのだろう。ただ、「国鉄民営化が間違いだった」「井手こそが諸悪の根源だ」という自身の主張を〝書評〟の形を借りて言い募っているに過ぎない。事故に乗じて自らの政治的主張を声高に叫ぶ、そのような態度こそ、遺族の淺野氏が最も警戒し、遠ざけてきたものである。
JR西の「独裁者」であった井手氏に経営責任があるのは当然であり、そのことは拙著でも繰り返し述べている。だが、佐高氏は自分と同じように舌鋒鋭く「筆刀両断」しないのが不満なのだろう。
しかも佐高氏は事故原因を極めて単純化し、善悪二元論に押し込め、個人を糾弾している。一部の遺族が求める「組織罰」に言及するならまだしも、彼の場合はただ井手氏を痛罵して留飲を下げたいだけに見える。それによって誰に何を伝え、何を変えたいと思っているのだろうか。その振る舞いは、彼が批判する井手氏とまったく同じである。
最後に『軌道』の主題の一つとなる一節を引用しておく。「失敗学会」(事故や災害の原因究明、リスク管理を専門とする研究者・企業人が集まる)のHPトップに一時引用・掲載されていた第4章のくだりである。
〈トップや幹部が悪いせいでこうなったと問題を単純化するのは、会社側が運転士個人のミスに帰そうとする姿勢の裏返しに過ぎない。組織の中の個々人が自分の責任を棚上げし、誰かに押し付けて断罪する、その「切断処理」こそが、組織全体を無責任体質にしたのではなかったか〉
福知山線事故の社会化を目指す淺野氏の思いが、16年の事故命日を機に広く伝わることを願ってやまない。
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