事業仕分けの仕掛け人、現場の風を官に吹かせた--加藤秀樹・行政刷新会議事務局長
1950年、香川県高松市に生まれた加藤は、祖父が国会議員だったこともあり、幼い頃から選挙は身近にあったが、69年に京都大学経済学部に入学しても、「公務員になることを考えたことはなかった」。
ちょうど加藤の入学年次は東大紛争の影響で東大入試が中止になった。東大を出て役人になろうとしていた受験生が京大に押し寄せた結果、公務員志願者が急増。「その気はまったくなかったが、みんなが受けるなら受けてみようかと」。
結果、合格して73年に大蔵省に入省。同期は17人だった。しかし、役人生活にはずっと窮屈さを感じていた。加藤の知人が胸の内を推し量って言う。「大蔵省に満足できなかったのだと思う。今も昔も、大蔵の主流は主計畑。傍流の彼には省内の展望が見えなかった。が、脇にいたからこそ、大蔵省を客観化し、主流の主計に見えないものが見えた」。
通常、志を抱く脱藩官僚が選ぶのは、政治家への道だが、「政治家は次の選挙に勝つことにほとんどすべての時間、エネルギーを使わざるをえない。その結果、政治の中身がおろそかになる」。
加藤はシンクタンクの立ち上げを構想した。役所の制約から離れ、自由な発想で政策の実現を図る「政策ベンチャー」。新組織設立へともに動いたのが、現・文部科学副大臣で、当時通産省の役人だった鈴木寛である。運輸省の官僚からマッキンゼーのコンサルタントに転じた上山信一(現慶應大学教授)はその頃、鈴木から加藤を紹介された。
「彼が面白いのは、組織も理念もやろうと思えば、自分一人で作れるのに、議論しながら作るところ。みんなに相談していた」。単騎独行ではなく、ネットワーク志向だった。
当時、シンクタンク設立の議論に参加したメンバーは、加藤、鈴木、上山に加え、朝日新聞記者の山田厚史、政策研究大学院大学教授の飯尾潤など。朝日新聞の山田にとっても、加藤の発想は新鮮だった。
「あれは、霞が関だけが偉いのではないという一つのムーブメントだった」と山田は言う。「公は官の独占物ではないよ、と。今でいう『新しい公共』の先駆けだったと思う」。
日本では、税金を使って行政がやるのが「公共」だった。しかし本来、公=官ではない。教育、医療、福祉などの公の領域を官が全国一律に律するから、無駄が出る。公をできるだけ民の手で担えば、多様性が生まれ地域も活性化する。加藤のこの理念が、後の事業仕分けの苗床になった。