日本ではなぜ「学者犬」教育が続けられるのか 弟子が師に抵抗できる「熟慮」の教育が必要

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しかし、さすが21世紀には、こうした教育はまったく役に立たなくなっている。今必要なものは、知識ではなく、知識をどう使うかである。知識であればいつでも携帯電話のホームページなどを使って、ただちに調べることができる。必要なのは、知識の意味であり、その知識は本当に使えるものなのかどうかという熟慮、本当に役に立つものはなにかという想像力のほうである。

熟慮とは知識の意味するところを知ることであり、その知識が生まれた背景を、根源までさかのぼって、しっかりと知ることである。そうなると教師はそれを説明しなければならないし、答えられなければ弟子と一緒に考え、場合によってはそんな知識など捨ててしまう勇気を持たざるをえない。

教師はむやみに教えようとするな

急がず、一歩立ち止まって考えることが重要である。だから、教師はむやみに教えようとしないことである。教師の役割は熟慮するよう仕向けることである。生徒は自分で考えるものなのだ。

その意味で中江兆民の師弟関係などは、日本に根付いてほしいものであったといえる。死を前にして彼が書いた『一年有半』の中で、こう日本の教育を批判しているが、これは今、衰退している私たち日本人にとって、心にずしんと響く言葉だといえる。次から次へと熟慮せず西洋の学問を追い求め、自らの哲学思想もなくことにあたり、受け売りの知識だけを肥大化させた小賢しい人々、こうした人々を養成することをいますぐやめ、自分で考える「活きた人民」をつくりあげろというのだ。

「旧来の風習を一変してこれを洋風に改めて、絶えて戸籍せざる所以なり。而してその浮躁軽薄の大病根も、またまさにここにあり。その薄志弱行の大病根も、またまさにここにあり。その独造の哲学なく、政治においても主義なく、党争において継続なき、その因実ここにあり。これ一種小怜悧、小狡知にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり。極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出することは到底望むべからずなり。すみやかに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに務るを要するは、これがためのみ」(中江兆民『一年半・続一年半』岩波文庫、1995年、32ぺージ)

(現代文訳、鶴ヶ谷真一訳、光文社古典新訳文書から)
「古くからの風習を惜しげもなく改めて洋風にしてしまったのも、同様の事情であった。しかしながら、浮かれやすく軽薄というその大きな病根もまさにここにある。意気地も根気もないという大きな病根もまさにここにある。独自の哲学を持たず、政治において主義がなく、党争にも持続性がない原因もじつにここにある。これは一種の小利口で小賢しく、偉業を達成するには向かない。きわめて常識に富める民は、常識以上に抜きんでることはとうてい望めない。速やかに教育を根本的に改革し、死んだ学者よりも生きた民衆を生み出さなければならないのは、こうした事情によるのである。」
的場 昭弘 神奈川大学 名誉教授

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まとば・あきひろ / Akihiro Matoba

1952年宮崎県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。日本を代表するマルクス研究者。著書に『超訳「資本論」』全3巻(祥伝社新書)、『一週間de資本論』(NHK出版)、『マルクスだったらこう考える』『ネオ共産主義論』(以上光文社新書)、『未完のマルクス』(平凡社)、『マルクスに誘われて』『未来のプルードン』(以上亜紀書房)、『資本主義全史』(SB新書)。訳書にカール・マルクス『新訳 共産党宣言』(作品社)、ジャック・アタリ『世界精神マルクス』(藤原書店)、『希望と絶望の世界史』、『「19世紀」でわかる世界史講義』『資本主義がわかる「20世紀」世界史』など多数。

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