日本ではなぜ「学者犬」教育が続けられるのか 弟子が師に抵抗できる「熟慮」の教育が必要

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しかし、日本ではなぜ教育は受動的になっているのだろうか。確かに儒教的教育による「読書百遍、自ずから見る」の教えからであるが、これは教育に限ったはなしではない。とにかくよく考えないで、海外のものをつぎからつぎへと輸入し、導入していく。抵抗というものがまったくない。和魂洋才と割り切り、魂は失ってはいなというのだが、その思想や哲学でさえあまり考えないで輸入しているのだとすれば、この言葉の意味は死んでおり、やはり無抵抗さをただ正当化しているにすぎないというべきだろう。

抵抗なきがゆえに自立がない

抵抗がないということは、反省がないということである。たとえば、よそから入ってくる病原菌は、自らの体になじんだものではない。だからそこに抵抗が起き、拒否反応が生じ、発熱するのである。発熱は自分の身体を守ろうとする抵抗である。そして葛藤が続くことで、次第に自分のものになっていき、免疫がつくのだ。抵抗がなければそのまま病原菌の軍門に下るということだ。

もっとも幕末においては、日本の多くの人々は徹底して抵抗したのだ。それが攘夷運動である。それは単なる孤立した鎖国思想の継承ではなく、西欧から流入するあらゆる文明に対する拒否反応であった。しかし、それも欧米の圧力のもと次第に力を失い、やがて明治になると、攘夷から西洋化へと一挙に進んでしまった。そしてその西洋化に対しては、抵抗というものがあまりなかった。先の学者犬の最大の欠点は、抵抗しないことだ。抵抗しないからかしこいのだ。

中国文学者の竹内好(1910~1977年)は、東洋における近代化の優等生日本は、抵抗という点では最大の劣等性だと喝破した(『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年)。竹内にとって、西洋の文化や知識をなんら抵抗なく取り入れ、それによってアジアの誇るべき経済大国となった日本は、たとえ近代化のチャンピオンだとしても、抵抗という点からみたら、アジアで最低の国だということになる。

なぜ抵抗が必要かといえば、抵抗こそ自己形成の必須の条件だからだ。抵抗がなければ、何が真実かを自分のものにすることができない。またそれは教える側に対しても失礼である。教えようとした西洋は、あまりにも上手に物まねをした日本を高く評価しないのは当然だ。なぜなら、西洋は、東洋からの激しい抵抗があってのみ、東洋のよさを理解し、また西洋とは何かを理解できるからだ。お利巧さんの弟子は、正直に言えば教師にとっても実は評価に値しない。教師と弟子は葛藤しあってしか、その関係を維持しえないからだ。ということは日本の教育には、こうした意味での緊張感が少ないということだ。

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