車上生活を描く映画が「日本人の未来」を映す訳 「ノマドランド」の根源的かつ明快なメッセージ

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ノマドたちはまず自分を最も頼りとする一匹狼的な存在といえるが、そのフロンティア精神になぞらえる自立や自由の内実は、多様なつながりや強固な連帯によってこそ支えられているのだ。その黎明期についてブルーダーはこう書いている。

似たような境遇のノマドがオンライン上でこれほど活発にやりとりしていれば、やがては現実の集まりに発展していくものだ。国内各地の森や砂漠でキャンプファイヤーを囲んだノマドたちは、小説家のアーミステッド・モーピンが「バイオロジカル」(生物学的)ならぬ「ロジカル」(論理的)なファミリーと呼んだ、一種の疑似家族を形成する。休日を本当の血縁者と過ごすより、ノマドのファミリーと過ごすことを望むノマドもいる。(前掲書)

「個別社会」の弱さ

ファーンがたどった道程があまりにも象徴的だが、彼女のいた職域とファミリーがイコールで結ばれる企業城下町的なコミュニティーは、今や前時代の遺物でしかなく地域社会は衰退する一方であり、分厚い中間層が下支えしていた国民国家は有名無実化しつつある。ノマドはそんな恐るべき時代の申し子である。これは物理的に人が土地に定着できないという問題ではなく、作家の宮崎学が指摘していた「個別社会」の弱さの問題である。

宮崎は、国家と重ならない個別の小さな社会を「個別社会」、日本社会のような国民国家レベルの大きな社会を「全体社会」と呼び、実質的に「個別社会」の機能を持つ集団は少ないと述べた(『法と掟と』洋泉社)。これは他者を自分たちの一部とみなして具体的に助け合える仲間の範囲といえばわかりやすいだろう。ノマドたちのトライブとは、いわば自衛的に立ち上げられた「個別社会」的なものの一形態なのだ。

宮崎が「日本社会では差別されている集団のみが個別社会としてのリアリティーをもつことができた」のは、「全体社会」から排除され結束する必要があったからだと説明しているが、今やその「全体社会」は、国家が国民の面倒を見ることに及び腰であり、無慈悲な市場原理主義が席巻している。わたしたちはあらゆる物事を市場に委ねることに慣れきってしまい、逆にそこから排除された場合のリスクに無頓着になってしまっている。

次ページわたしたちはすでにノマドと何ら変わらない?
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事