中野:アメリカだと、リンカーン像などが非常に神々しく作られていますね。また、ジョージ・ワシントンが子どものころに父親の桜の木を傷つけてしまったことを正直に告白した話が語り継がれています。あの話自体はつまらない訓話ですが、国をまとめるにはあの手の神話が必要なのでしょう。
施:そうですね。歴史的に見ると、ネイションは30年戦争という宗教対立が終わったあとに台頭しました。当時のヨーロッパ人は神学論争やイデオロギー対立に疲れ果て、精神的安定を欲していました。そのため、イデオロギーや階級対立を超えて人々をまとめるネイションが求められたのです。ネイションが神話のようにフィクショナルなものだとしても、人々はどうしてもネイションを必要とするのです。
国民国家が生き延びる道とは
柴山:中野さんのおっしゃるとおり、国民国家はさまざまな歴史を経て現在の形になりました。私たちはそれを「暫定協定」として受け入れてきました。これに対して、いま起こっているのは、その歴史を道徳的な悪をたっぷり含んだものと考え、過去を断罪する運動です。
日本でもしばしば報道されているように、アメリカでは奴隷制度に関わった人物の銅像が次々に打ち倒されています。同様のことはイギリスでも起こっています。先日、イギリスのエディンバラ大学の留学から帰ってきた学生に聞いて驚いたのですが、エディンバラ大学にあった「デイヴィッド・ヒューム・タワー」の名前が変わったそうなのです。18世紀の哲学者ヒュームの名前を冠した大学の中心的な建物ですが、ヒュームがあるエッセイで黒人差別的な文章を書いたことがあったため、問題になったようです。
中野:実にばかげていますね。
柴山:ヒュームが活躍したのは、いまから200年以上前の話です。社会規範が今とはまったく違った。たとえそれが許しがたいことだったとしても、歴史とはそういうものだから、そこは与件として見なければならないはずです。
しかし、人権問題を重視する人たちは、そうは考えない。現代のリベラルな価値観を過去にも遡行的に適用しようとしている。もちろん、そうした反省に意味がないとはいいませんが、この流れでいくと、従来の「暫定協定」をそのままの形で維持することはできないでしょうね。