全知全能の神を「老人として描く」ことの違和感 なぜ我々の知る神は「人間」に似ているのか?

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加藤:すると、過去と未来、因果、物語が生まれてしまいますね。

:そうですね。こうした認知革命により、人間は死を怖れるようになった。自己の一回性、非代替性、非再現性を否応なく想像してしまう。動物も病気になったり、老齢化したり、けがをして苦しいと、その向こうに、もっと、なんか、怖いものがあるらしいと感じる。エサが取れなくて、お腹が減って苦しいと、大変なことが起きそうだと感じる。でもその程度で、自分の生命は、一回的なものであるとは動物は認識できない。

加藤:先ほどはカントを出しましたが、プラトン(紀元前427〜347/哲学者)の「洞窟の比喩」におけるイデアとフェノメナと重ねて捉えてもいいように思います。イデアは目に見えないけれど、想像することはできる。目に見えているのはフェノメナ、つまり現象にすぎない。これは別に難しい理屈ではなく、どんな民族にも神話があることが、その証左ですよね。

いろんな人々がそれぞれの神話を伝えてきていることは、共通している。それが後に、ユング(1875〜1961/心理学者)が、集合的無意識とか人類共通の夢として、共通のイメージを示してくれています。どの人種も、肌の色は違えども、あるイメージから共通した思いを抱く不思議さが、『サピエンス全史』で語られているのですね。

聖書は矛盾だらけ

:キリスト教と仏教は人間の有限性を考えるうえで、対極にある。キリスト教は、完全なもの、無限なものは存在しているという立場です。それが神ですね。つまり、神は完全であり、無限の存在であるとする。仏教は完全・無限なものはないと考える。端的に言えば、諸行無常が真理であるとする。諸々のものはつねではない。恒常なものは存在しない。つまり、すべては有限なものだということですね。

キリスト教の神、ゴッド、エホバ、ヤーウェは完全・無限なものとしてある。それに対して、ほかの諸々、人間、動物、植物、その他あらゆるものは、神の被造物であるから、不完全なものであるという認識をしている。

ところがそういうキリスト教の教理は、長い時代を経て成立したので、聖書も矛盾だらけです。神は7日間で、この世にある諸々のものを作った、最後に作ったのが人間なんだとする。その人間は、神が自分の似姿(肖像=肖た像)として作っているわけです。ということは、逆にいえば、見たところ人間は神に似ているわけだよね。

例えば、早稲田大学のキャンパスの真ん中に大隈重信(1838〜1922/政治家、教育者)の銅像が立っている。銅像を見ると大隈重信を見たことがない人でも、「ああ、こういう人だな」とわかるわけだよね。同じように神がわれわれに似ているということになると、神の身長は全人類の平均の170cmくらいで、体重は65kgくらいになる。でも、170cm、65kgというのは、無限ではなくて、有限じゃないか。神は有限の大きさなのか。俺はこの前、前立腺肥大になって、おしっこが出なくなったんだけど、では、チンチンは、神にはあるのか?

神は生殖の必要はないでしょ。そもそも相手もいないし。すべてに満ち足りていれば、水や食い物を摂取する必要もない。だからチンチンなんか必要ないってことになる。神がもし裸だったらね、ものすごく変に見える。さらに考えると、チンチンの上にあるへそも必要ない。お母さんはいないんだもん。目、鼻、口もいらない。無限の能力を持っている以上、においをかぐ必要もないから鼻もない。ものを食べる必要はないから、口もない。だから、神の像というものはものすごく変ですよ。

加藤:似姿だとすれば、どんどん変なことになっていきますね。

:そのため現在ではキリスト教系の高校の宗教の時間などでは神の図像は描かない。三角を描く。三位一体を意味しているんだね。でも、こんなことが始まったのは、最近の話であって、昔は神の姿は人間そっくりに描かれている。

『死と向き合う言葉:先賢たちの死生観に学ぶ』(ベストセラーズ)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

有名なシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ(1475〜1564/芸術家)の絵を見ると、神がリアルに描かれていて、アダムに手を差し伸べている。年を取った老人の、白髪でひげを生やした、貫禄のあるおじいちゃんとして神は描かれている。でも、これもよく考えると変な話で、神は年を取るのだろうかね。アダムは全裸なのに、神が白い服を着ているのは、神にへそがあったらまずいというのを隠しているのだと俺は思う。いや、アダムにへそが描かれているのも、そもそもまずい。アダムはお母さんから生まれたわけじゃないもの。

つっこみ所はいっぱいあるので、このぐらいにします。さて、キリスト教的な考え方では人間は神の被造物だから、不完全なものであるとする。無限の存在ではないので、命にも限界があるとする。でも、神の分身として造られたものだから、きわめて神に近い存在であった。だから、本来なら、永遠の命も持っていた。つまり、自己の一回性、非代替性、有限性について、考えなくていい存在であったけれども、罪を犯したから神が怒って、人間を楽園から追放して、そこで死が生まれたわけですね。

でも、なんで神は人間が裏切ることを予測できなかったのか。神様、あなたは全能じゃなかったんですかという話になる。人間だったらオレオレ詐欺にだまされるかもしれない。でも、全能の神が人間に裏切られて、そのあとで怒ってる。神は先のことが読めないのかね。

呉 智英 評論家

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くれ ともふさ / Tomofusa Kure

1946年生まれ。愛知県出身。早稲田大学法学部卒業。評論の対象は、社会、文化、言葉、マンガなど。日本マンガ学会発足時から十四年間理事を務めた(そのうち会長を四期)。東京理科大学、愛知県立大学などで非常勤講師を務めた。著作に『封建主義 その論理と情熱』『読書家の新技術』『大衆食堂の人々』『現代マンガの全体像』『マンガ狂につける薬』『危険な思想家』『犬儒派だもの』『現代人の論語』『吉本隆明という共同幻想』『つぎはぎ仏教入門』『真実の名古屋論』『日本衆愚社会』ほか他数。

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加藤 博子 文学者

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かとう ひろこ / Hiroko Kato

1958年生まれ。新潟県出身。文学博士(名古屋大学)。専門はドイツ・ロマン派の思想。大学教員を経て、現在は幾つかの大学で非常勤講師として、美学、文学を教えている。また各地のカルチャーセンターで哲学講座を開催し、特に高齢の方々に、さまざまな想いを言葉にする快感を伝えている。閉じられた空間で、くつろいで気持ちを解きほぐすことのできる、「こころの温泉」として人気が高い。さらに最近は「知の訪問介護」と称して各家庭や御近所に出向き、文学や歴史、哲学などを講じて、日常を離れた会話の楽しさを提供している。著作に『五感の哲学——人生を豊かに生き切るために』。

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