全知全能の神を「老人として描く」ことの違和感 なぜ我々の知る神は「人間」に似ているのか?
呉:死を考えるときに、大きな2つのポイントがある。1つは人間の有限性の問題。有限は「不完全」と言い換えてもいいでしょう。人間は、あるいは生命は、不完全で有限なものであるということ。もう1つは自己の一回性ですね。別の言い方をすれば、自己の非代替性といってもいいし、非再現性といってもいい。
つまり、この私しか、私ではないということです。有限な存在だからこそ、そういうことが起きるわけです。ただし、このことを認識できるのは、生物のなかで、人間だけではないか。すべての生物はどれも有限だけれども、自己の一回性ということがわかるかどうかについては、人間以外の生物には疑問がある。
人間に近い知能を持っているといわれているチンパンジーを使った実験に人間との対話を試みたものがある。でも、チンパンジーは、口頭言語では会話ができそうもない。それで、手話の形で会話をしたりする。そうやってチンパンジーに「死とは何か?」と聞くと、聞くというのも変だけどさ、手話でどのように聞くのかはわからないけど、一生懸命、説明するんだろうね。すると、チンパンジーはなんか「遠くへ行く」ということを示すらしい。俺はこの話を100%信用してるわけではなくて、「らしい」としか言えないけどね。
もっと下等な動物は対話が成り立たないけど、自らが死に近いところに追いつめられたり、自分たちの仲間の死を見たときに、どう反応するかを考えるとね、人間ほど深いことは、考えていないのではないかと思われる。
加藤:そう見えますね。
呉:さまざまな苦痛の延長線上に死があるから死は怖いということは、彼らもわかっている。例えば、けがをしたり、猟師に撃たれたりして、非常に苦しむ。その先に死がある。だから、それが怖いということはわかるのだけど、死そのものへの恐怖とは違う。やはり人間しかそこのところは理解できていないだろうね。死そのものが怖いということは、自己の一回性、自己の非代替性を自覚しているからだ。ケーガンもこの2つの問題を出しているけど、これが人間の死の恐怖だと思う。
加藤:もう二度と戻れないという怖さ、悲しみですね。
「認知革命」とは
呉:自己の一回性、あるいは非再現性を、恐怖と感じること。これはハラリの本の中にも出てくる「認知革命」に関係している。認知革命という言葉はヨーロッパの哲学者たちの間ではわかりやすいかもしれないが、われわれには、非常にわかりにくい。
認知革命は、原語ではコグニティブ・レボリューションという。俺なんか年齢的にもう認知症に近くなってきたけど、日本語では普通何かがわかることを認知という。文字どおり、認め知るから認知なんだ。でも、ハラリの言う「認知」は少し意味が違うんだよね。わかりにくいんですよ。
加藤:確かに「認知革命」の「認知」と、「認知症」の「認知」は、違うのに同じ言葉で、ややこしい。
呉:同じ例としては最近、さまざまなところで言われるようになったけど「表象」という言葉がある。何かというと表象、表象です。大学では、表象なんとか学部みたいなのができるくらいになっている。
表象は、原語ではリプレゼンテーション。リ=プレゼントだから、現実にある(プレゼント)ものを、もう1回、頭の中で繰り返すから、リプレゼントなわけだよね。プレゼントが現存しているものであるとするならば、幽霊を頭の中に描いた場合は、表象なのかという疑問が出てくる。幽霊は存在していないわけだから。もともとプレゼントしていないものだから、表象じゃないということになるんだね。
だけど、現在、表象というと、ものを頭の中に思い浮かべるとか、あるいは象徴、シンボルの意味でも表象という言葉は使われていて非常にわかりにくくなっている。