古川さんは出演した番組内で志望校を「立命館」と書いた。ライバルたちは「東京大学」「京都大学」と書いている人が多かったので、目立った。
その結果、立命館大学へは「クイズ推薦」という形で入試をせずに進学することができた。入学後は『立命館大学クイズソサエティー(RUQS)』に所属した。
「僕が立命館大学に進学したかったのは、ウルトラクイズの時代にRUQSが無類の強さを誇っていたからなんですね。僕は古い本を読んで『立命館は強い!!』と思いこんでましたが、実際に入ってみるとそれほど盛り上がってはいませんでした」
ゆるいテニスサークルに、ガチガチのテニスアスリートが入部したような形になってしまった。
しかし
「とにかくクイズしまくろう!!」
と頑張った。
2003年から、毎年開催されている早押しクイズ大会『abc』は、現在も続いているクイズプレーヤーが目標とする大会の1つだ。
古川さんが入学した年に第1回が開催され、もちろん出場した。結果は準優勝に終わった。
「それまで本当に勝ちたいと思ったクイズ大会では負けたことがなかったので、悔しかったですね。負けたときのビデオを何度も繰り返し見ました。そしてとにかくガリ勉をしました。大学1~2年が人生でいちばん勉強した期間でした」
大学では、歴代のクイズの蔵書に当たることができた。
その頃にはインターネットもだいぶ使えるようになってきていたので、ネットから情報を仕入れることもできた。
「今思うと、20歳前後の記憶力はえげつなかったなと思います。とにかくなんでも覚えられました」
そして大学2年、3年、4年と『abc』を見事に3連覇した。古川さん以来、3連覇を果たした参加者はいない。
製パン会社は1年で辞め、公務員に
大学卒業後は、製パン会社に就職した。
だが、クイズプレーヤーを辞めるつもりはなかった。一生クイズプレーヤーを続けるし、一生いちばん強いのは自分だ!! と思っていた。
「ただ入社したのはとても仕事が厳しい会社でした。残業が220時間という月もありました。クイズ大会に行きたいなんて言おうものなら、上司から怒られました」
実際クイズ大会に行くどころか、寝る時間もなかった。居眠り運転で2回も交差点に突っ込んでしまった。
死ぬほどつらいし、このまま続けたら本当に死んでしまう……と思った。そして2年目の夏に会社を辞めた。
「勤務条件をガラッと変えるべく、ホワイト企業に勤めようと思いました。最もホワイトなのは、公務員だろうと考えました」
仙台の実家に戻り、1年間試験勉強をした。そして東京23区の公務員試験に合格した。
「どの区に行きますか?」
と言われたので、葛飾区を選んだ。
「葛飾区には生涯でいちばんのライバルであり友達の石野将樹が住んでいました。超天才と呼ばれていたクイズプレーヤーで、東日本のエースでした。
彼の家にはよく足を運んでいたので、葛飾区には愛着がありました」
公務員として最初の3年間は、生活保護のケースワーカーが仕事だった。住所不定の人などを相手にする、死と隣り合わせの壮絶な現場だった。勤務時間などは前職よりもだいぶ楽になったが、それでもかなり厳しい仕事だった。
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