源氏物語で「女の死」の場面ばかり描かれる理由 葵上も、藤壺も、夕顔も、六条御息所も…

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藤壺はなんとかしてその嬉しく思う気持ちをも源氏に伝えたいと思ってきた、しかしそれが果たせぬままに死んでしまうのが、心残りだと語るのである。冷泉帝は、源氏との愛の形見でもあり、同時に罪の明徴でもあった。この愛と罪と、二つの感情に挟まれて、藤壺はひたすら懊悩している。源氏は、その藤壺の言葉を、かすかに耳にして、泣き崩れる。そして、

「……今また、こうして宮さままでも例ならぬご体調でいらっしゃる……わたくしはもう、なにもかも心が乱れ果てまして、こんなことでは、もはやこの世に長くは生きておられないような気持ちがいたします」

と、泣き言を言い続けているうちに、藤壺は、

灯などの消え入るやうにて果てたまひぬれば、いふかひなく悲しきことをおぼし嘆く

とあって、あたかもかすかな灯火が、ふっと燃え尽きるように死んでしまった、というのであった。いわば、未練がましいことをあれこれと言い続けている源氏の存在を黙殺するように、藤壺の定命は尽きるのであった。源氏は、かくしてただ一人哀痛の巷に取り残される。

なぜ、紫式部は源氏の死を描かなかったのか

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女たちの死を描いている場面を抽出し比較してみると、そこには、必ずや男たちの身勝手な恋に踊らされて、懊悩の果てに死を遂げる女という姿があぶり出されてくる。

葵上も、藤壺も、夕顔も、六条御息所も、一条御息所も、宇治の大君も、そういうふうに眺めてみれば、みな同じである。

ひとり紫上だけは、他の女君とは違って、死そのものは幸いな形で迎えたのであるけれど、といって、その人生は、つねに苦悩と二人連れであったことは動かない。

男の死を描く唯一の例外、柏木の死についていえば、この人だけは、重い罪の意識と、光源氏に睨まれたための苦悩、それは彼自身が引き起こした恋の煩悶には違いないが、それでも源氏への恐怖と抑鬱のために病臥した柏木を、睨みつけ、恫喝的な皮肉を投げつけ、酒を無理強いしなどして、結局死に追いやったのは源氏であった。

かくのごとく総括してみると、柏木の死は、光源氏によって齎されたもので、よろずの女たちが、男の身勝手による苦悩のうちに死んでいくのと、いわば同じことなのであった。

つきつめれば、この物語の作者は、「女にとって、死とは何か」ということを考え、そして問うたのであって、そこでは男たちは、つねに女を苦しめ死に追いやる〈あちらがわの存在〉でしかなかった。

されば、男たちの死は、いわば対岸の火事のようなもので、そこには作者にとっての、何ら切実なものを含まなかったと言うも可であろう。光源氏の死を、ついに描かなかったと見られるのも、畢竟そこに根本の理由があるのかもしれない。

林 望 作家・国文学者

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はやし のぞむ / Nozomu Hayashi

1949年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得満期退学(国文学専攻)。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。『イギリスはおいしい』(平凡社・文春文庫)で1991年に日本エッセイスト・クラブ賞、『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』(P.コーニツキと共著、ケンブリッジ大学出版)で1992年に国際交流奨励賞、『林望のイギリス観察辞典』(平凡社)で1993年に講談社エッセイ賞、『謹訳 源氏物語』全十巻(祥伝社)で2013年に毎日出版文化賞特別賞受賞。

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