源氏物語で「女の死」の場面ばかり描かれる理由 葵上も、藤壺も、夕顔も、六条御息所も…
もともと源氏よりも年上の「添い臥しの妻」葵上は、つねに高飛車でかわいげのない名家の令嬢然とした存在として描かれるのだが、そのお産に当たって瀕死の状態に陥る。
外見的に頗る美しげな女君がひどく病み弱って、生死のほども定かでないような、つまりほとんど意識不明に陥ったときに、「いとらうたげに心苦しげなり」と源氏は感じる。すなわち、なんとかしてやりたい、労ってやりたいと思うようなかわいげを感じて、同時に心中に痛切な痛みを感じたということである。
「らうたし・らうたげ」などの形容は、葵上については、この重病に陥るまで一度も用いられることがなかったのだが、ここへ来て、やっと源氏は取り返しのつかぬ思いで、「らうたげ」に感じたというわけである。
しかし、ちょうど秋の司召(つかさめし)があるというので、源氏は、瀕死の妻を置いて、院の御所へ出向こうとする。しかも、その人に対して、己の不行跡に対する反省などはこれっぽちもなく、さらに、そなたが母親に甘えているからこういうことになるのだと、批判がましいことまで言い添えて、さっさと出かけようとするのである。
かくて言いたいことを言い放つと、それこそこざっぱりと美しく正装して、すたすたと出ていこうとする、その源氏を、葵上は、いつにも増して、じーっと見つめたまま臥せっていたというのである。
これは、なかなか凄い描写だと思うのだが、つまり、表面上はいかにも労り深いような様子を見せながら、しかし、平気で正装して出ていく夫に対して、何も言わず瀕死の病床から睨みつけている妻、その無量の悲痛と恨めしさ。
このところの源氏の姿を「いときよらに」ではなくて「いときよげに」と描写しているのにも注意したい。『源氏物語』では、「きよら」と「きよげ」は、厳密に使い分けられている言葉で、つまり本当にすっきりと美しいという賛美ではなく「うわべばかり、そんなにきれいに飾りたてて」というほどの批判的な気分がこの「きよげに」に込められている。
やがて、男たちがこぞって参内してしまうと、がらんと人気の失せた御殿に一人取り残された葵上は、急に発作を起こして、あっという間に死んでしまうのである。
つまり、源氏に看取らせずして独り死んでいくことで、妻は最大の復讐をしたのではなかったか。
藤壺の最期──源氏の存在を黙殺するように
では、源氏にとって深い罪の根源でもあった禁断の恋の相手、藤壺はどうだったであろうか。巻は「薄雲」。
見舞いに訪れた源氏は、藤壺が死を覚悟して苦悩しながら語る言葉を聞く。それは、源氏との恋のことではなかった。不義の恋によって生まれた冷泉帝の身の上が、彼女にとって最大の気掛かりであったのだが、源氏は内裏で帝の後見役としてせいぜい力を尽くしている。
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