苦難を越え「福島の被災少年」が掴んだ驚きの夢 幼い心に刻まれた記憶、そして目指したもの

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翌日、福島第一原子力発電所の1号機の原子炉建屋が爆発を起こす。それをテレビで見て知った。

「うちのほうにも、影響がくるのかな、くらいは思っていましたけど……」

水道は依然として止まったままだ。9歳だった康平も家族とポリタンクを持って、給水の列に並んだ。

「メッチャ並びましたよ。1時間くらい。それも公園の水道でしたけど」

生きるために水は必要だ。家族のために少しでも多く確保しようと、並んだ子どもたちは少なくない。だが、このときには放射性物質が空気中に散乱していた。子どもを並ばせたことで被曝させてしまったのではないか、とのちのち心配して嘆く母親たちの声も、私は耳にしている。

郡山から出て行く友達が何人もいた

小学校もそのまま休校となり、新学期が始まったのは、大きな揺れからちょうど1カ月後の4月11日からだった。ところが、そこで異変に気付く。クラスの人数が減り、学校全体でも児童数が減っていたのだ。

「郡山から出ていく友達は何人もいましたよ。放射能の影響で出ていっちゃうのかなあ、この福島にいたら放射能がずっと降っている状態になっちゃうのかなあ、とは思いました」

だが、郡山から出ていきたいと思ったことはなかった、という。

「放射能よりも、地震のトラウマのほうが強かった。次にいつ来るか、と……」

それでも、県外へ転校した同世代の子どもたちが、「福島」という理由で周りからいじめられるという報道に接しては、子どもながらに悲しみと怒りを覚えた。

そして、次第に彼の生活も変わっていく。まず印象に残っているは、5月の運動会が半ば中止になったことだ。

「運動会が午前中だけで終わった。それまでは、お弁当を家族と外で食べるのが運動会だったのに、それがなくなった」

この頃には、首から線量計をぶら下げることが常態化していた。それに「行動のしおり」というものを毎日記録しなければならなくなった。

「○月×日、どこに行ったか、毎日書く。ちょっとほかの県と違うのかなあ、と思うと、それが嫌でしたね。自分の身体の中に放射線が入っているんじゃないかと、不安で」

そうすることで被曝の実態を調べる。危険な場所に暮らしていることを否応なく感じさせる。でも、それについては友達と話したこともなかった。それ以上に嫌な思い出として残るのは、マスクをしての生活だった。友達と外で遊ぶのに、夏でもマスクが強いられた。暑いし、苦しい。子どもにとっては苦痛以外のなにものでもない。

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