「霞が関」の構造や組織文化は、日本が検証から学ぶことが苦手な一因となっている。組織としての間違いをなかなか認めない無謬(むびゅう)性や、省庁間の消極的権限争い、リスク回避傾向は、構造的な課題である。鈴木亘・学習院大学経済学部教授は次のように指摘している。
「行政にとって政策評価とは非常にセンシティブなテーマであることに気づかなければならない。官僚達の生きる世界は、減点主義の終身雇用社会であるから、悪い評価が行われることが、その担当者達のキャリアに後々まで影響を与える可能性がある。(中略)したがって、なるべく政策評価は行われたくないし、行われる場合にも逃げ道のあるぼやっとしたものになる。」(「EBPMに対する温度差の意味するところ」『医療経済研究』Vol.30 No.1 2018、2018年12月14日発行)
国会でも政策評価の機能が十分に発揮されず
国会においても、その行政監視は政治家や官僚の不祥事の責任追及で使われることが多く、政策評価としての機能は十分に発揮されてこなかった。2011年の「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)」は憲政史上初の、立法府による国家的危機の検証となった。国会事故調が与野党共同提案により実現したことも画期的であった。しかしその後、国会が国家的危機における行政の政策を検証する、政策評価としての行政監視機能が向上してきたとは言いがたい。
バイデン政権は、トランプ前政権の政策の検証を、あらたな政策立案の入り口に据えている。政権発足直後に発表した「COVID-19対応とパンデミックへの備えのための国家戦略」では、レビュー(review)という単語が37回も出てくる。前政権の政策へのクリティカル・レビューとしての検証を経て、新たな政策を次々と打ち出している。こうしたレビューや政策を動かしているのは、前政権時にシンクタンクに所属しながら自らの刃を研いでいた政策実務家である。
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